17世紀はじめに新町宿として発足したこの宿駅が「八幡宿」という名称に改められたのは、東からの宿場への入り口に八幡神社があったからだそうです。
  創建の歴史や由緒については謎です。現在の八幡社の背後(北側)に高良社という不思議な社が祀られていますが、これが八幡社の起源になったと見られます。しかし、高良社の起源は謎なのです。


◆渡来人の信仰の場が起源か◆



天保年間に建立された楼門造りの随神門:重厚な結構で彫刻もじつにみごとだ。

▲街道側から大鳥居と参道、随神門を眺める。楼門までは幅5間の参道。


▲随神門を入って右傍らにある舞殿(神楽殿)と思われる社殿


▲高麗門様式の中門。屋根両端が唐様式切妻となっている。


▲高麗門を入ると、右手(東側)に八幡社拝殿、正面奥に高良社


▲唐破風向拝を前面にもつ美しい造りの拝殿


▲拝殿の背後(左側)に本殿がある。実に美しい結構だ。


▲拝殿お向かいの池のなかに建つ厳島社

▲高良社の右背後、八幡社本殿の北側にある諏訪社


▲境内の樹林の奥には墓地がある

  宿場街としての八幡は、蓬田村、桑山村、八幡村から構成されていました。八幡宿は、もともとは北側の山裾にあった蓬田村と桑山村、そして河岸丘陵の南側にあった八幡村の住民を中山道沿いに移住させて新たに建設された宿場だったのです。
  八幡神社はその鎮守で、祭神は誉田別尊ほんだわけのみこと玉依比売命たまよりひめのみことで、中世から戦国時代にかけては滋野氏=望月氏の手厚い庇護を受け、近世には歴代小諸藩主が帰依しました。


唐様式の切妻屋根のみごとな高麗門

大きな唐破風向拝がすばらしい

  今でも残る八幡社の美しい造りの社殿(本殿と拝殿)は1783年(天明年間)の建立です。そのさい、それまでの本殿は高良社として、現在地に移築されたそうです。高良社は国指定の重要文化財となっています。このことから、高良社が八幡社の前身だったと考えられています。
  高良社内にあった棟札から、1491年(延徳年間)に望月遠江守光重たちが建立したものだと判明しています。棟札の裏には、高良社の始原は数百年さかのぼってもわからないと記されていたとか。
  この地の北方の御牧原台地には、古代から大和王権直属の牧場(官牧)があって、渡来人たちが大陸系の身体が強く大きな馬を飼育していました。滋野氏=望月氏は牧監もくげんとして牧場を統治管理し、朝廷に駿馬を献納していました。その渡来人たちは古墳時代にこの地に移り住み、遠い故郷の祖霊を「高麗社」として祀っていて、それが「高良社」に転化したものと見られています。
  八幡社としての起源については、859年(貞観元年)、滋野貞秀が創建したという伝承があります。そして、御牧原にあった望月氏の城館の鬼門除けとされたという伝説もあろので、八幡社は往古には御牧原台地上から現在地に移設されたとも考えられます。

  さて、八幡社境内神域は中仙道から40メートルくらい奥まっています。そこへの入り口として、は幅5間(約9m)の参道が40メートルほど続いています。往古には、この参道両脇に松とケヤキの並木があったのではないでしょうか。
  参道を経済神域とを仕切るのは、重厚な楼門づくりの随神門です。この、見事な造りの楼門は天保14年(1743年)、小諸藩主牧野遠江守康哉が願主となって、千曲川西岸の村々から寄進を受けて建造されました。
  随神門の背後には、東西の幅が50メートルで南北の奥行きが60メートルと広大な神域が控えています。鬱蒼とした樹林となっていて、往古には寺院もあったようで、墓地をともなっています。


本殿側からの眺め(奥側が拝殿))

高良社と背後、諏訪社の北西側の境内草地

境内神域の北右端の眺め

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