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長野県佐久市八幡~蓬田


 
八幡宿の中心部をめぐる


▲本陣小松家の高麗門は、江戸時代の造りを保っている。丈の高い門で、騎乗したまま入ることができたそうだ。

  宿駅の建設当初には、街道沿いに3間~10間の間口の敷地割りで63軒の伝馬屋敷が建設され、そこに蓬田村から27戸、その東隣の桑山村から16戸、南側の八幡村から20戸が移り住んだのだとか。その後、街道沿いに30~40戸が加わって、宿場街としての長さはだいた800メートルほどになりました。


▲中町交差点の近くの街並み風景(西側からの眺め)


▲中町交差点付近の景観(東側から)。昭和期の店舗の二階両端に袖壁がある。

  3か村は幕府の道中奉行ならびに小諸藩による村寄せの命令で集められて宿場をつくったことから、宿場としてはひとつですが、それぞれの村に名主などの村役がいて独立した村として運営されたということで、他の宿場とは異なっています。また、3か村の人びとの居住地は宿場町のなかで複雑に入り組んでおり、隣同士でも大字と地番がまったく異なるため、外部者には住所が分かりにくく、宅配業者泣かせと言われているとか(⇒参考資料)。宿場街としては「上町」「中町」「下町」という街区の「まとまり」ないし区分があったはずですが、今は中町交差点が識別できるだけで、旧街区の識別はほとんど不明です。中町は本陣や脇本陣が集まっていた場所なので、住民が宿場の行財政の中枢だったので中町集落として意識し行動する場合が多かったでしょうが、ほかの住民たちは蓬田村、桑山村、八幡村という集合単位で行事をおこなっていたので、上町や中町、下町という街区のまとまりには関心がなかったのでしょうか。
  東隣の村、御馬寄は千曲川対岸の塩名田宿の加宿でした。加宿とは、本来は宿場街ではないのですが、近隣の宿駅を追加的に補完する集落のことです。
  八幡宿から塩名田宿までの道のりは3キロメートル弱、望月宿までの道のりは3.5キロメールと、すこぶる短くなっていました。その理由としては、暴れ川の千曲川は頻繁に川止め(通行禁止)になるため待機地が必要だったこと、千曲川西岸から百沢あたりまで強粘土質の道は降雨などでぬかるむと歩行や輸送が非常に困難となることから、宿駅の間を短くしたと見られています。

■中町から下町(宮本)まで■


桑山の背後にそびえる浅間山

  1816年(文化13年)の記録では、宿場街の住戸数は186軒となっています。問屋を兼務の本陣(小松五右衛門)と脇本陣(大島屋半三郎)が蓬田村、問屋兼務の脇本陣(依田太郎兵衛)が八幡村、脇本陣(大阪屋弥八郎)が桑山村に属しています。1843年(天保14年)に編纂された『中山道宿村大概帳』によると、宿場は本陣1軒、脇本陣はひとつ増えて4軒、問屋2軒、旅籠3軒となっています。
  本陣・脇本陣という格式が高い公用の宿泊施設が5軒と整っているのに対比して、庶民用の旅籠の数がかなり少ないようです。これは、参覲旅の大名や幕府の高官の休泊という役目に重点を置いた宿駅の造りだと見られます。
  1861年(文久元年)の皇女和宮下向にさいしては、本陣・脇本陣の数は変わらず、旅籠が4軒と1軒増えていますが、住戸数140軒ということで、文化年間に比べて40軒も住戸数が減っています。宿駅の伝馬役を担えないようになった住民が、この街に住めなくなったのでしょう。宿場の負担が過重になって、宿場街としての財政危機が深刻化したと見られます。

  八幡宿本陣跡は貴重な事から1997年(平成9年)に佐久市指定史跡(交通・通信施設)に指定されています。とはいえ、本陣の面影をとどめているのは薬医門だけです。この門は、中山道沿いで現存する本陣の門のなかで最古のものだと見られています。


本陣小松家の街道に面した大きな間口(22間以上)


本陣西隣の脇本陣跡。駐車場は土間・板の間跡の部分

  現在の八幡の街並みは、旧街道沿いに約900メートルの長さで、家屋が集まっている家並みの奥行きは旧街道から南北にそれぞれだいたい50メートルくらいで、幅100メートルほどの帯状の形です。帯の外側には水田地帯が広がっています。
  そんな八幡宿の北側の背後には御牧原台地が迫っていますが、視線を少し北東方向に転ずると、桑山地区の背後のなだらかな丘の彼方に雄大な浅間山を望むことができます。

■宿駅の中枢だった中町■

  「八幡宿の町割りと街並み絵図」という記事で示したように、中町には本陣や脇本陣など有力な一族が屋敷を構えていました。これらの宿役人(村役人)の屋敷跡には今でも、往時の名残りや家門の資産力・地位を物語る遺構や面影が残されています。
  本陣や脇本陣、問屋などの役目には、豪農で商業を営む有力で富裕な家門が任じられました。というのは、家屋や家財の維持や修繕、建て替えの費用を自弁できる資産を保有することが、条件だったからです。
  また、江戸時代には屋敷地内にどのような規模と形の建物を建てるかは、幕府道中奉行ないし藩の許可(または命令)が必要だったのです。たとえば、本陣小松家の薬医門が今でも保存されていますが、この仕様の門は宿駅での身分=地位を示す装置で、これが往時、宿場で最高級・最上位の門だったのです。
  脇本陣にはこれよりも格下の仕様の門の建築が義務づけられることになり、富裕な旅籠であっても、薬医門や高麗門という格式の建築は許されませんでした。それが身分(職分)秩序だったのです。士農工商という大雑把な区分ではなく、農民や商人の内部に明白な序列があったのです。明治以降になってから、資産しだいで門を自由に立てる権利が認められたのです。

■八幡社の膝元、下町(宮本)■

  八幡宿の街区の境界は不明ですが、私の勝手な想像では、江戸時代に蓬田村・桑山村・八幡村の郷倉があった場所から東側が下町(宮本)ではないかと見ています。下町という名称は、単に京洛の近いか遠いかによる区別ですが、何やら格下の街という語感を受ける人もあったようです。そこで、八幡社の足元ということで、宮本という呼び方になったようです。
  神社の近隣を宮本と呼ぶ例は意外に多いのです。信州で有名なところでは、大町の糸魚川街道沿いの仁科神社の周囲の集落も宮本という地名です。
  下町(宮本)は、八幡社の東を流れる中沢川の渓谷までです。しかし、もともとの宿場町の東端は桝形までだったと見られます。そして、八幡社境内参道の東隣は町割り図によると「隠宅 大之介」となっているので、小諸藩の家臣の隠居屋敷だったのでしょう。
  町割り図では、八幡社の東側には宿場では無役となっている住戸ばかりです。つまり、宿駅の建設当初に移住していなくて、後から宿場の住民となった人びとの住戸だと見られます。

■河岸丘陵を往く中山道と八幡宿■


北側から街道までのぼる坂は急傾斜だ


街道南側では一軒の敷地内で高低差が2mにもなる

  すでに見たように、中仙道は、御牧原台地の裾野にある百沢集落を出ると布瀬川を右岸に渡って、虚空蔵山から北東に延びる尾根に続く布瀬川の(最上段の)河岸段丘上を進みます。この段丘は、虚空蔵山から千曲川への布瀬川の合流地まで続いてます。
  しかし、この河岸丘陵は、八幡社の東側で布瀬川に合流する中沢川が刻んだ渓谷でによっていったん断ち切られます。中山道はこの谷間に降りて、谷底から丘をのぼり返すことになります。この丘の向こう側が御馬寄村です。
  街道が丘の背(稜線)を通っているので、八幡宿の集落は、北側は布瀬川まで下る北西向き斜面に家屋が並ぶ家並みとなり、南側は南東向きに下る斜面に並ぶ家並みとなります。
  こういう地理的な事情からして、八幡宿の西の外れと東端とでは、800メートルほどの道のりで20メートルもの標高差があります。勾配は25パーミルとなります。粒子の細かい粘土質の表土は、降雨の後にはひどい泥濘になるので、岩村田や塩名田方面から西に向かう旅人や荷を運ぶ馬方とか歩行役は苦労したはずです。クルマで運搬したり移動したりする現代人には、経験できない難儀です。


八幡社の前は桝形跡で道筋がクランク状だった

八幡社の東を布瀬川に向かって流れる中沢川


蓬田の丘から八幡宿を眺める▲

街並みの北側には布瀬川河畔の水田地帯が広がる▲

昭和中期の面影を残す家並み(中町交差点付近)▲

中山道を横切る小路沿いの家並み▲

白漆喰の妻面と二階の袖壁が昭和前期の面影を呼び起こす▲

八幡宿本陣小松家の薬医門を正面から眺める▲

中町最大の薬医門は明治以降の造りと見られる▲

街道を挟んで本陣の向かい側の脇本陣(依田太郎兵衛家)跡▲

宿内の有力者家門の屋敷が並ぶ中町の一角▲

ここにも格式のある屋敷の遺構と雰囲気が残されている▲

中央の針葉樹が中町と下町(宮本)との境だと見られる▲

八幡社参道入り口の石段は街道に面している▲

八幡社参道入り口の西手前から街道は中沢川の谷間に降りていく▲

下町(宮本)地区の街並みを振り返る。ここも昭和中期の建築が多い。▲

旧中山道は東に向かって下っていく▲

中沢川の谷間を越えると街道は上り坂になる▲

中沢川の谷間から八幡屋がある丘を眺める▲

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