大日堂とは密教の曼陀羅体系の最高位にある大日如来――全宇宙を統べる仏――を祀ったお堂です。いかにも天台密教の寺院して似つかわしいとといえます。
  飛鳥時代から岩殿山一帯には山岳信仰(始原的な密教修験)の霊場があって、平安時代中期(9世紀半ば)に比叡山の座主、慈覚大師円仁によって天台密教の有力な拠点――岩殿時またはその前身の大寺院――として開基され、その大寺院に属す塔頭のひとつ、中願寺のお堂だったようです。


◆大日堂は岩殿山霊場から移築されたか◆

 
中願寺としての遺構・痕跡はなく、大日堂と仁王門だけが残っている



▲境内西側の山林の背後には麻績川の谷と岩殿山の尾根が迫る


▲修験僧や山伏が好みそうな起伏が激しい稜線が続く


▲長屋づくりのような独特の造りの仁王門


▲こんなに間口の幅が広い仁王門は珍しい


▲間口・奥行きが3間ほどもある重厚な大日堂



▲寄棟造りの大日堂の側面(棟側)の様子


▲樹齢800年以上と推定されるモミの老樹


▲三館だが豊かな農耕地が広が穏やかな集落


▲近隣の集落の家並みは、密集していて都市的な趣を感じる


▲昭和中期までの豊かな山村の風景が残っている


葉bb秋の陽射しを浴びる仁王門

  境内にある説明板によると、大日堂は岩殿寺の塔頭中願寺の銅として849年に慈覚大師円仁によって開基されたそうです。岩殿寺は848年に開創された天台密教の霊場としての大寺院で、広大な寺領のなかに4つの支院と12の坊(塔頭)、75の社殿があったようです。
  中願寺はその坊のひとつだったということです。岩稜や岩壁がいたるところにある岩殿山と富蔵山は、7世紀から熊野三所権現を祀った山岳信仰の霊場で、後に天台密教の有力拠点となったということです。
  その頃の寺領・境内はおそらく岩殿山の中腹から東麓ないし富蔵山麓にかけての一帯にあったのではないでしょうか。現在、岩殿寺がある別所川河畔は湿地帯・湿原だったと見られます。
  その辺りは麻績川と別所川がつくった谷間の平坦地で、標高差がないために両河川ともに、うねるように蛇行してします。鎌倉時代くらいまでは低湿地あるいは沼沢地だったようです。
  したがって、初期の岩殿寺(またはその前身の寺)は現在の境内地にはなく、岩殿山の東麓にあったのではないでしょうか。320ヘクタールという広大な寺領を擁していたという伝承があるので、七堂伽藍が並ぶ、いわば宗教都市ともいえるほどの集落をなしていたわけです。

  今では深い樹林におおわれて跡形もありませんが、岩殿寺の南側の稜線上に山頂の奥ノ院に案内するように堂塔伽藍が並んでいたのではないかとも見られます。
  境内の説明板では、1626年(寛永年間)に再建されたと記されていますが、その後、岩殿寺が衰微荒廃したとか戦国時代の戦乱などもあって焼失したとかいうような状態だったものを現在地に再興再建したということではないでしょうか。
  してみると、中願寺大日堂は当初、別所にあったと推定される大寺院の寺域内にあったと推定できます。しかしながら、4つの支院や12の坊がどういう寺号(名称)だったのかについては、いまだ史料が見つかっていません。大日堂を擁していた塔頭が中願寺という坊であったらしいと推測されるだけです。

  とはいえ、別所川の上流部にはひとまとまりの寺領系だとなるような広い台地や平坦地は見つかりません。
  では、大日堂が属していた中願寺はその頃どこにあったのでしょうか。現在地の辺りは赤松とか仁熊と呼ばれた村落で、尾根高台丘の上にあるので、湿地帯ではなかったと見られます。開創当初からこの地にあった可能性があります。その場合には、開創期の岩殿寺の支院や塔頭はひとつの大きな境内にまとまって堂塔伽藍群を形成していたわけではなく、分散していたということになりそうです。


初春に尋ねたときの大日堂


落雷の被害からよみがえりつつあるモミの老樹

  戸隠山も本来は天台密教の有力な修験霊場――戸隠山顕光寺――でしたが、神仏習合の格式のもとで宝光院、中ノ院、奥ノ院という3つの大きな支院が分散していて、宝光院から奥ノ院まで4キロメート以上も続く参道の拠点なっていて集落をともなっていたようです。
  坂北別所の岩殿寺も4つの支院――それぞれが大寺院で七堂伽藍を備えていた――が分散していたのかもしれません。というのも、大日堂の裏手、麻績川を挟んだ西側には岩殿山の尾根支脈が迫っていて、この尾根を辿りながら山岳修験の行をおこなうことができたであろうと見られます。


近隣の集落を歩いてみた

|  前の記事に戻る  |