筑北村坂北別所の穏やかで風光明媚な平坦地に古い密教修験の寺院があります。天台宗の富蔵山岩殿寺です。
  寺伝では開創は7世紀前半で、日本古来の自然信仰が伝来初期の仏教思想と融合して始原密教が盛んだった頃です。山岳信仰の形態をまとっていた密教は、寺の境内から南西におよそ4キロメートルにある岩殿山頂上付近や尾根が修験の場所だったそうです。


◆巨大な山岳信仰=密教修験の霊場だった◆

 
晩秋を迎えた坂北別所の河畔の丘にある岩殿寺の堂宇と山林



▲丘の下の平坦地は別所川の蛇行がつくた湿原の跡


▲別所川河畔を往く道路


▲こぢんまりした境内入り口の簡素な茅葺の薬医門


▲近隣の石仏を集めて安置した小堂(覆い屋)


▲端正な造りの本堂: 茅葺から銅板武器に改修したらしい


▲馬頭観音騎馬石像があるからか、木製馬像が奉納されている


▲晩秋の陽射しが境内庭園を明るく照らしている▼




▲背後の山裾に祀られた稲荷社


▲往古の湿原の名残りか、本堂裏手にある蓮田


境内の南側を流れる別所川河畔のススキ原

陽当たりの良い境内のイチョウの黄葉

  富蔵山岩殿寺とぐらさんがんでんじは、筑北村坂北の別所川の畔のなだらかな丘に位置しています。ここは、古代には麻績川と別所川が合流して造った広大な湿原だったと推定されます。
  ここに寺院が建立されたのは中世になってからではないでしょうか。
  さて、岸壁や岩棚がいたるところにある岩殿山いわどのやまが山岳修行の霊場となった7世紀前半といえば古墳時代の末期で、各地で古墳を築いた王侯たちが畿内を中心に同盟して連合政権を組織し始めた時代です。朝鮮半島から伝来した仏教思想は、やがて連合政権の盟主としての大和王権の権威を支え正統化する宗教になっていきました。
  中央政権は地方の王侯たちに権威を伝達して臣従させ、農耕地や農村集落の開拓を推進させ、農産物や特産物の朝貢=徴税の仕組みを形成し、これが律令制度として体系化されたようです。これは、畿内と各地方との権威のヒエラルヒーをもたらし、支配するものとされる者との格差。貧富の格差が顕著になっていく時代でした。
  一方、役行者たちの山岳修験は豪壮な寺院建築とは離れた山中に修験霊場の場を求め、大和王権や地方の小豪族から支配される民衆の救済や農耕技術・知識の普及を担うようになっていったようです。
  大和王権から特権的地位を与えられた学僧たちのなかには、高度な知性を備えたエリート・テクノクラートとして栄達のために仏教研鑽に励みながらも、民衆の救済を訴える山岳修験の思想に共感を覚えるも者たちもいたようです。天台(比叡山)や真言(高野山)によって密教が体系化されるよりも、150年から200年も前の時代です。


馬像は本堂の向拝軒下に左右一対置かれている

  伝承によれば、630年前後、役行者の弟子、学文行者が岩殿山を修験道場として開山してからおよそ200年の後、848年(嘉祥元年)に慈覚大師円仁(比叡山の座主)が岩殿山から富蔵山におよぶ一帯に寺領として約320ヘクタールを得て、熊野三所権現を祀る一向大乗寺として岩殿山霊場を再興し開基したのだとか。三所権現とは日本の神としてはスサノオ、イザナギ、イザナミですが、仏教世界の曼陀羅体系では十一面観音、聖観音、釈迦如来が本源なのだとか。
  広大な山域に広がる寺領には4つの支院と塔頭12坊を配し、75の神社を擁する名刹となっていたそうです。9世紀半ば以降には、天台系修験の中心寺院となりました。岩殿寺としては十一面観音、深沙大王を本尊としたようです。
  江戸時代と昭和期の大火災で本堂と仏像、文物の大部分は消失したそうです。残っているのはわずかに懸仏かけぼとけ(十一面観音、聖観音、釈迦如来が一体となっている金銅征製の重要文化財)と大日如来坐像、3つの木製神像などだとか。
  寺紋が武田菱とばっているのは、戦国時代に武田信玄の帰依を受け、庇護されたことによるそうです。


本道は観音様に参拝する形になっている

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