治田神社は元はひとつの神社だったようですが、今は稲荷山の下之宮と桑原の上之宮の2つに分かれています。いつ、なぜ、2つに分祀されたのかはわかりません。 古墳時代に継体天皇に引き立てられた近江出身の小豪族、熊田氏が祖霊を治田山の中腹に祀ったことが由緒だと伝えられています。


◆治田を開拓した小豪族の祖霊を祀ったのが起源◆

 
稲荷山宿の一の鳥居から西に約1キロメートルほど離れている治田神社下之宮の社叢



▲稲荷山宿上八日町の背後に立つ一の鳥居


▲溜め池の北側、社叢の手前に立つ二番目の鳥居


▲溜め池の畔を陽射しを浴びながら南に向かう並木の参道


▲三の鳥居の奥に控える拝殿は1917年の改築だという


▲大きな拝殿の背後に本殿が置かれている


▲社殿の東側に溜め池があるので社叢は暗くない


本殿は1790年(寛政2年)の建築だという

  神社の名称のもとになった治田ぼ語源は「墾田」で、元来は「はりた」という音だったそうです。つまり、水田開拓の労苦や業績を記す用語だったのです。開拓をおこなったのは近江出身の小豪族の熊田氏だとか。
  伝承では、古墳時代、出雲出身で皇位継承争いに勝ち残った継体天皇が、同郷の熊田氏を引き立ててこの一帯の開拓を命じたそうです。開拓は成功して、熊田氏は大和王権から治田のむらじの姓を与えられ、神社祭祀の役職を担うことになったそうです。
  熊田氏は治田山の中腹に祖霊として彦坐命ヒコイマスノミコトを祀って、これが治田神社の始原となりました。これが主祭神ですが、副祭神としてウカノミタマとコトシロヌシを祀っているそうです。神話物語では、ウカノミタマは倉稲大神とも呼ばれ稲荷社の起源となった神で、コトシロヌシは出雲の神でオオクニヌシの子にしてタケミナカタの兄だとか。
  熊田氏が出雲出身だったことからコトシロヌシを祀ったのではないでしょうか。


合祀されている天満宮の社殿

  ところで、治田神社が2つの社に分祀されたのはいつで、なぜなのでしょうか。この一帯は戦国時代までは小坂の領主によって統治されていましたが、戦国末期に上杉家が千曲川河畔に稲荷山の城館を築いて街集落を建設したときに、この街集落が桑原とは別のものとして自立したからではないか、と私は想像します。




明治末期に合祀令によって移された社殿群

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