光明山無量院極楽寺は、鎌倉時代に桑原に開創された浄土宗の寺院だそうです。この寺院も、天正年間に上杉家が稲荷山の城下町を建設したさいに後の中町に境内地を与えられた移転してきたようです。 ところが、水害で流失後に上八日町に広大な寺域を与えられて移転しました。そこは街集落の南に形成された郊外の新開地で田園に囲まれていたので、火災による被害も免れてきたようで、広壮で重厚な本堂と鐘楼などの堂宇が今も保存されています。


◆郊外新開地の広大な境内を保有してきた寺院◆

 
構想で重厚な造りの本道と庫裏が西方浄土を向いている



▲土蔵が軒を連ねる上八日町の参道小路の奥に山門がある


▲巨大な薬医門が参詣者を出迎える


▲鐘楼の前で振り返るとケヤキの老巨木が上空を扼している


▲均整がとれた本堂と庫裏、常夜灯が整然と並ぶ


▲独創的な造りの鐘楼の原型は戦国時代のものらしい

  極楽寺は旧稲荷山宿の中心部からやや離れた上八日町にあります。現在の稲荷山は、街集落の南側の3分の1ほどの区域――これが上八日町――が国道403号によって分断されています。この国道は昭和期から平成期にかけて建設されたもので、つい30~40年ほど前(昭和末期)まで、上八日町と下八日町(本八日町)との間に田園地帯が割り込んでいたために、道路用地になってしまったのです。
  上八日町では、江戸時代には旧街道に面した家並みはあったのですが、表町通りの裏手には水田地帯が広がっていたのです。そういう事情で、1638年(寛永年間)の千曲川の水害で流失した後、1642年に現在地に移転再興されました。

  さて、寺伝によると、1273年(文永年間)、鎌倉の有力寺院、光明寺を桑原村開山した良忠が開創したそうです。良忠は記主禅師と呼ばれていて、唐代中国で浄土教を開いた善導の著書を研究し、法然の衣鉢を継いで日本での浄土宗の体系化に寄与したそうです。
  良忠は信濃とのゆかりが深く、現在の坂城町では西教寺の中興や源忠治の開山に関与しています。
  戦国末期に上杉家が稲荷山の城下街の建設を始めるさいに――町割り計画に極楽寺の移転が織り込まれ――境内寺域を与えられたそうです。場所は五日町(のちに中町となる)という街区の東寄りだと見られます。千曲川に近い場所です。

  本尊は阿弥陀如来で、脇侍は勢至菩薩と観音菩薩で、三尊像として寺宝となっているそうです。
  境内には樹齢300年を超える大ケヤキの脇に独特の凝った造りの鐘楼があります。これは寛永難関の水害後の移転の才に修改築築されたものだと見られますが、現在は茅葺造りの屋根がトタンでおおわれています。


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