真言宗の稲荷山とうかさん五大院長雲寺は、伝承によると平安時代末期から鎌倉時代初期(12世紀末葉)に創建されたそうですが、寺の来歴は多くの点で不明のようです。 天文末(1554年頃)に武田家の信濃侵攻や上杉家との戦乱で焼失したそうですが、創建から400年四角の期間の事績が曖昧模糊としています。それから40年以上の年月を経て再興されたものの荒廃したようです。18世紀末に再興されましたが、1847年の善光寺地震でふたたび焼失、本堂債権は明治中期だとか。


◆悲運を重ねては復興した来歴をもつ寺院◆

 
重厚な蔵造り商家古民家の間の参道小路の奥に長雲寺本堂を眺める



▲本堂の背後の高台の上に初期の寺域があったのではないか


▲宿場町のなかにあるせいか境内はこぢんまりしている


▲端正な寄棟造りの本道の簗の輪郭が美しい


▲境内と各種小堂の様子<

  長雲寺は五大院という院号をもっていますが、これは本尊が愛染明王とともに五大明王――不動明王など仏教を護る軍神――を本尊としているからです。古代サンスクリット文明の軍神たちを祀るとは、いかにも真言密教に似つかわしいですね。
  寺伝では、高野山龍光院の僧快照が奥州への巡錫の途次、木曾路から善光寺に立ち寄ることにしたところ、この辺りで不動明王の夢を見て発願、陣を創建して龍灯山長運寺と名づけたそうです。
  ところが、16世紀半ば武田家の信濃侵攻と上杉家との合戦による戦火を浴びて焼失してしまったのだとか。およそ半世紀後の1589年(天正年間)、稲荷山村新町(荒町)に寺が再興されたということです。その後、1847年(弘化4年)の善光寺地震で焼失し、明治中期になってようやく再建されたということです。
  ところが愛染明王と五大明王に関する伝承では、正徳年間(1711~15年)、伊予今治藩主家出身の良言上人が上田藩の招請を受けてこの地に赴任し、堂塔伽藍を建立して、仁和寺の末寺としたそうです。このとき仁和寺から愛染明王像とともに五大明王像を拝受して本尊としたのだとか。
  この経緯は、荒町に長雲寺が再興されてから善光寺地震で焼失するまでの期間に挿入すればいいのでしょうか。

  ところで、天正年間における寺院の再興は、上杉家がこの地に城館を築いて刀利の拠点として城下町を建設したさいに寺域地境内を与えられて堂宇を建立したものと考えられます。
  そうすると、開創のさいの場所は現在地ではないかもしれません。真言密教の寺院として開創されたとすると、稲荷山の西に迫る尾根の上、たとえば現在の稲荷山公園の背後の丘高台ではなかったでしょうか。

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