治田山の裾、小坂城の遺構に隣接して桑原山龍洞院という大きな禅刹があります。山と城砦を背にした領主館のような重厚な結構です。
  寺伝では、室町中期に高名な禅師が北信濃を巡歴中に在地豪族の桑原氏とともに禅寺を開創したのが由緒だそうです。桑原氏が小坂城の麓にあった領主館跡地を寄進して開基としたのかもしれません。


◆今も七堂伽藍を保持している境内は必見◆


本堂などの銅伽藍がある段を堅固な石垣で支え漆喰土塀で囲む姿は城郭のような趣




▲八角形の円通殿と鐘楼が境内西側の壇上に並ぶ


▲瓦葺き入母屋の重厚なお堂は観音堂か


▲安息堂の背後に大きな屋根の本堂


▲禅宗様式の趣きを残す境内庭園


▲背後に山を背負う本堂は1772年(安永元年)に建造


▲入母屋の軒下の唐破風が裳階のようになっている


▲石垣上の薬医門(山門)から参道を見おろす


▲境内東端から眺めた境内堂宇群は領主の居館のようだ


大きな鐘楼の背景に並ぶ堂宇がじつに見事

◆遠州大洞院可睡斎の末寺◆

  龍洞院は、火伏で霊験あらたかと言われる秋葉権現を祀る、遠州の高名な禅刹大洞院可睡斎の系統にあります。そうなった経緯は、開山が高名な禅師如仲天誾じょちゅうてんぎんだからだそうです。
  応永年間(15世紀はじめ)、如仲が信濃巡歴の途次この地に立ち寄り、観音堂に休泊したときに霊夢を見たのが機縁となり、在地の領主桑原左近大夫を開基として禅刹が発足したからだそうです。如仲天誾は大洞院可睡斎を開いた禅僧です。

  ところで、明治以降には神仏分離が制度化されたので、禅寺と秋葉権現とが結びついていることに釈然としないかもしれませんが、そういう近代の発想の方がむしろ神仏習合という日本の伝統的な格式から外れていると言うべきでしょう。
  私は無信心の無神論者ですが、仏教思想史的に見れば、そういう文脈で理解すべきだと考えます。
  権現という存在自体が神仏習合の思想から構想されたもので、仏教思想を根底として、日本の自然信仰から生まれた神々は、仏教世界の曼陀羅体系に地位を占める仏たち――古代サンスクリット文明世界の神々――が日本の大地の上に、日本の民衆が認知できるように顕現したものと解釈されるのだそうです。神と仏はリンクしているのです。
  ともあれ、幕末まで仏教寺院は、ことに密教では、寺域の神々を恭しく祀り、帰依することを条件としていたのです。
  開創時の寺号はわかりません。それから1世紀ほど経過した1504年(永正元年)、寺が衰微したのを嘆いた禅師が、桑原左近大夫の子息、左近将監と諮って桑原山龍洞院として中興したと伝えられています。このとき、小坂城の麓の居館跡(現在地)を寄進して寺領境内としたのかもしれません。郷土史研究では、龍洞院としての開山開基はこの時だとする説もあるようです。


安息堂という扁額が懸けられている

本堂の東側は庫裏かあるいは禅堂か

◆七堂伽藍を備えた有力寺院か◆

  現在、龍洞院の周囲には広大な墓苑がありますが、開創時から江戸時代までは、一般民衆は死去した家族のために墓標を建立することはなかったので、広大な境内寺域には数多くの塔頭支院があったものと見られます。
  現在、龍洞院の直系の末寺となっている源真寺、大雲寺、真龍寺、真蔵寺、真福寺、泰峯寺などは、もともとは龍洞院の寺域内にあった塔頭支院だったのではないでしょうか。


城郭の結構のよう見える石垣の上の山門

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