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▲丘の上にのぼる道が現在の参道、往古はこの右脇に桝形があった。
街道脇から石垣壇上に移された道祖神や二十三夜塔が並ぶ。ここは村境で、石仏や石塔が並ぶ広場で庚申講や二十三夜待ちの集塊がおこなわれた。
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▲壇上左から道祖神(石祠形式)、馬頭観音、二十三夜塔
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▲不自然な形で舗装道路から境内に向かう参道と鳥居
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▲境内の東側は樹林がなく開けていて、浅野の寺町が見える。 社殿も街を見おろす角度で、
往古には、街を一望する社殿に向かって神楽を奉納したのだろう。
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▲常夜灯の配置も何やら不自然、画面左端が往古の参道石段の位置。
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▲樹林の列を割るようにして社殿に向かう参道はどこかぎこちない
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▲社殿前で振り返って鳥居を眺める |
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石垣壇上に鎮座する現在の浅野神社の拝殿。
本来の社殿とはちょうど直角にズレてしまった。
明治新政府は性急で短絡的な富国強兵・殖産興業政策をとったため、各地の歴史や文化を乱暴に強引に断ち切り、組み換えてしまいました。それは、古い街道や城下町、史跡を探訪するたびに痛切に心に迫る印象です。
旧浅野村平の丘にある浅野神社を訪ねたときにも、往古の姿を探る痕跡さえ見つからないほどこの神社は造り変えられてしまったのか、という感慨を深くしました。歴史の流れは道や街の姿を変えていくものだとはいえ、変化の容赦なさに驚きます。
旧白鳥明神の社殿は、元来はほぼ東向きで、旧蟹沢村の南曾峯地籍にある椿神社(都波岐神社)と互いに向き合っていたそうです。そして、参道石段は浅野宿の街並みと寺町を見おろす丘の東側にあって、仲町からの参道が続いていたようです。
ところが、日清・日露と相次ぐ戦争の膨大な出費で財政破綻に直面した明治政府は1907年、祠堂合祀令を発して、日本各地の町村に対して、地区内の小さな神社や祠を主要な神社に合祀することを命じました。政府は廃した小社祠の境内を没収して民間に売り渡す一方、神社への補助金の多くを削って、財政を立て直そうとしました。
浅野地区では、穂長社、諏訪社、伊勢社を白鳥明神に合祀して社殿境内を造り変え、浅野神社に改号しました。
参道も付け替えたので、今の参道や境内の向きが地形から見て違和感を感じるほどに不自然です。そのうえ鉄道建設で丘の縁斜面を切通したので、浅野の街並みと神社の地形的なつながりが断ち切られてしまいました。
◆白鳥神社の系譜◆
明治後期に神社の歴史が断ち切られてしまったということで、ここからは私の勝手な想像(妄想)です。
私が知る限り、規模が大きく格式がある白鳥神社は信州には3つしかありません。ひとつ目は海野町の白鳥神社で、海野氏の氏神として祖霊を祀った社です。ふたつ目は、松代町狼煙山の裾にある白鳥神社で、葛城藩主真田家が先祖としての海野氏の祖霊を祀ったもので。三つ目が、浅野の平の白鳥神社(明神)です。
白鳥神社の起源としては、神話時代、ヤマトタケルが蝦夷遠征で行軍したさいに、碓氷峠を越える道に迷ったときに白い鳥が導いて東征を助けたという物語があります。とはいえ、ここでは中世の豪族、海野氏が白鳥神社を祖霊を祀る社として勧請創建した後の物語を描きます。
戦国時代、上信山岳部を統治していた小領主、真田家は武田家に臣従して所領を保持拡大しました。武田家の信濃攻略では先陣・先導役を演じたようです。北信濃で武田家は、鎌倉時代から長沼(大田郷)を統治していた地頭領主、島津家を駆逐して城砦を築きました。追われた島津家は北に逃れて大倉城に陣を構え、上杉家の支援を仰ぎました。この島津家は、薩摩島津家の先祖です。
おそらく真田家は、武田家の先鋒として大倉城と鳥居川を挟む対岸の尾根に砦を築き、その後背地の浅野古町を城砦直下の拠点とし、その西に迫る平の丘に白鳥神社を勧請したのではないか・・・というのが私の妄想です。
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