旧飯山街道浅野宿は鳥居川を挟んで大倉村橋場から蟹沢村中島まで続く街並みと密接に結びついて、当時としては全体として有力な商業都邑を形成したそうです。
  ところが、明治時代の新街道令、国道令などにもとづいて、荷車や馬車の通行を容易にするため、浅野村上町から新設の鳥居橋を経由して蟹沢村の中心部に連絡する幹線道路を建設したため、交通・物流、商業の主要経路から外れて寂れてしまいました。


◆時勢の変化で農村化した村の現在◆

 
大倉橋場の北西端の街道分岐点の石道標;「右ハ飯山道、左ハ牟礼 梅ノ木」と刻まれている



▲浅野宿から橋場・中島に渡る大土橋はこの辺りに架けられていた


▲現在の鳥居橋と鳥居川の流れ


▲旧橋場地籍にある猿田彦神社と二十三夜塔


▲この屋敷は明治時代からの屋敷割のまま保たれているようだ


▲かつては水田地帯だったが、今はところどころに家並みがある


▲旧街道の左(西)側は旧大倉村の大方集落


▲道を挟んで左側が大倉村で右側が蟹沢の家並み


▲この辺りから飯綱町(牟礼)や信濃町(柏原)まで続く丘陵


▲旧街道の辻のランドマークとなる古民家


▲丘の上にある龍澤寺の境内から旧街道の辻方面を見おろす

◆旧街道は大土橋を渡り橋場へ◆


分岐点の石道標:右に曲がれば飯山街道

  徳川幕府を頂点とする幕藩体制の頃には飯山藩による街道制定の恩恵を受けて隆盛した橋場から中島には、明治初期までは、有力な商家が街道沿いに軒を連ねていたと伝えられています。
  当時とは鳥居川の流路が違っているようですですが、右岸にある現在の二十三夜塔・猿田彦神社から南に50メートルほどの地点に大土橋が架かっていて、旧街道は橋から北西に進んでいました。それで橋場という地名がついたようです。
  橋の袂はT字路で、その辻は東に向かう前橋街道との合流点だったそうです。前橋街道は千曲川の河畔まで進み蟹沢村の渡し船で上高井郡の中野に連絡し、そこから上州に向かう大笹街道の脇往還まで続いていたそうです。
  ふたつの街道が出会う場所なので、橋場・中島・浅野は一体として物流と商業の拠点として繁栄したようです。


かつてここで祈りの場で二十三夜待が催された

◆浅野・橋場・中島の繁栄◆

  『豊野町誌 1』(第2章 豊野の交通と交易 第1節 街道と豊野)ではこう記述しています。
  浅野宿は「明治12年の記録では半農ながら商家25軒、職工22軒、運送業15軒、医者1軒、漁業4軒というにぎわいぶりで、神代宿よりも商勢は盛んであった。街道は上町通りの東で直角に折れたあと、上町の子育て地蔵の前でふたたび直角に折れて鳥居川に架かる大土橋を渡った。ここが(浅野宿の)東の出入り口にあたるが、実施は対岸の橋場や中島通りの方がにぎやかで、旅籠屋、医者、酒屋、穀屋、油屋、醤油屋、茶屋、桶屋、湯屋、紺屋、魚屋等が軒を並べていた。ここは善光寺と山間部の出入り口にあたり、飯山藩にとっては南の玄関口にあたる要衝であった」。
  ところが、明治16年の橋梁と道路建設を境にして、盛運は終わりを告げたようです。

◆大倉と蟹沢との村境を往く街道◆

  橋場は旧大倉村の最南端の集落でした。橋場の街並みの北端で旧飯山街道は、牟礼方面に往く道と分岐して北に向かいます。この分岐点に江戸時代の石道標が立っています。その表側には「右ハ飯山道、左ハ牟礼 梅ノ木」と刻まれています。
  ここで右折すると、飯山街道は西側の大倉村と東側の蟹沢村の境界線を進み中新田に連絡することになります。
  大倉村大方地区を過ぎると旧街道は丘をのぼっていく道となります。今では大型重機を使っておこなった耕地整理や土地改良の結果、水田地帯がところどころに広がっていますが、昭和中期までは耕地のほとんどがリンゴ果樹園でした。


浅野から蟹沢に向かう県道399号の鳥居橋

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