飯山街道浅野宿の絵地図

■宿場としての浅野村と飯山街道■

◆往古の水系と地形◆

  浅野一帯の地形から推定すると、太古から江戸時代初期まで、浅野の南東側の千曲川と鳥居川に挟まれた河畔低地は。立ケ花の境界な峡谷の直前の上流なので、膨大な流水が滞留して千曲川も鳥居川も多数の分流となって広大な湿原を形成していたはずです。
  18世紀の松代藩による河川水系の大改修よりも前には、浅川の主流は長沼の名端から柳原・村山で千曲川に注ぎ込んでいて、浅野の南側の分流は小さな流れだたっと見られ、浅野の南側で蛇行する千曲川に合流していたようです。
  してみると、浅野の集落の南から東にいたる地帯の河岸段丘はおおむね千曲川が形成した河岸段丘で、現在の水田地帯は広大な湿地帯の一部分でした。
  鎌倉時代から室町中期まで、現在正見寺がある街道の上の段丘上に城郭が造営されていて、街道よりも東側に城下街があったものと水てできます。その中心は古町だったようです。集落の名前が古い城下街だったことを示唆しています。

◆浅野は川中島の戦の最前線◆

  長野市豊野町浅野は、少子高齢化で過疎化が進んだ今でも、寺院がいくつもあるからかもしれませんが、都市的集落の名残りを感じさせる街並みです。

  集落の西側には髻山から続く尾根東端の丘陵が迫り、鳥居川を挟んで大倉城跡が位置する城山を含む山並みが続いています。大倉城は、上杉氏が武田氏の北信濃攻略に対抗して拠点とした砦でした。
  上掲の絵地図の左上にある白鳥神社は、大倉城に対峙するために武田勢が砦を築いたと見られる丘陵の先端です。もしそこに武田川の最前線の城砦を構築したのが、武田家の武将、真田家ならば、白鳥神社を勧請創建したのはごくもっともな話です――あくまで私の想像ですが。
  武田家と上杉家との戦闘が持続したとされる川中島は、往古「水内」を言い換えた地名表記で、その頃(戦国時代後期)の犀川以南(現在の川中島)は、犀川の無数の分流が善光寺平南端の千曲川に向かって流れ落ちていたため。広大な湿地帯でした。

  甲冑を身に着け騎馬を交えた大規模な軍勢どうしが闘う地理的条件はありませんでした。川中島の戦いに関する限り、江戸時代後期に架かれた『甲陽軍鑑』の記述は、当時の古地理や水系を踏まえておらずまったくのデタラメです。
  武田家と上杉家が戦闘を繰り返した川中島とは、犀川以北の丘陵地帯、とりわけ長沼から若槻にいたる一帯だと推定できます。長沼城は、松城城を後詰とする武田家の前線基地だと位置づけられますが、浅野は最前線だったと見られます。
  当時、川中島と呼ばれた地域は、長野村善光寺下から飯山までを含む広大な地区でした。松城城北端の土塁から杵淵までは広大な湿原の沼地でしたから、武田家は舟運を活用して長沼や浅野に軍事物資や食糧を補給したはずです。
  そうなると、浅野の東端にある古町は、鎌倉時代からの城下街で、戦国鋼機には真田家の城砦直下の城下街だったので、古くからの町と呼ばれたのではないでしょうか。

◆軍道や古街道、舟運◆

  さて、飯山街道は浅野宿の西端にに直角に2回曲がらないと宿場街に入れないような軍道設備としての桝形を設けました。街の東端では、鳥居川を渡る手前にやはり桝形を置きました。
  街道宿場墓発足当初には、浅野宿は上町と下町の2つの街区からなっていたと見られます。やがて街の成長と拡大にともなって、以前は新開地の小村落だった西組と下組を加え、下町は仲町(または中町)と呼ばれるようになったようです。
  浅野村の家並みは鳥居川で途切れたものの、対岸の大倉村橋場と蟹沢村中島の商家が軒を連ねる街通りと一体化して都市的な機能を果たしていたようです。
  してみると、飯山街道は、当初武田家が敷設しやがて上杉家が接収した軍道を原型として整備されたのではないでしょうか。また長沼(赤沼)や福島からの舟運の船着き場――おそらく武田家がつくった――が千曲川左岸にあって、そこから戸隠まで向かう古街道が浅野宿の中ほどで直交していたとも考えられます。
  往古、浅野村の渡し船を利用する旅人が多かったと伝えられています。

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