旧飯山街道は1640年頃、主に飯山藩藩主が参覲交代で北国街道――善光寺道と松代道があった――に出るために制定した街道で、飯山藩が統括して整備したものだそうです。
  公式には飯山城を出ると替佐村、浅野村、神代村の3つの宿場しかありませんでした。松代道に連絡するためには、神代宿から長沼宿に向かい、善光寺道に出るめには神代から南郷を経て徳間村の新町宿に向かいました。浅野宿は神代村よりも規模が小さな集落でしたが、寺院や旅籠、商家が軒を連ねる豊かな集落だったそうです。 ⇒浅野宿の絵地図を見る


◆浅野は神代と相宿で半月ごとに任務を交替した◆

 
集落の中心部にある浅野村の庄屋の屋敷の遺構。問屋ではなかったが、駅逓を担っていたので、明治鉱には郵便局になった。


  浅野宿は鳥居川を挟んで大土橋の北側に大倉村橋場、南側に蟹沢村中島の集落と一体化した商業地をなしていました。それらは一体化してひとまとまりの都市集落として機能していました。

▲浅野神社がある丘の下の辻を曲がって下ると浅野宿に入った

  善光寺平では白鳥神社は、松代藩真田家が狼煙山の麓に真田家の祖先、海野氏や滋野氏の祖霊を祀った社として知られています。
  武田氏と上杉氏とが戦闘を重ねた川中島とは、千曲川水系の古地理から見て現在の川中島ではなく、長沼から若槻にいたる区域だったと推定できます。浅野の北西に、上杉家の拠点だった大倉城があり、長沼には武田家の城砦が築かれていました。
  浅野の西側の丘陵は、鳥居川を挟んで大倉城と対峙する地点で、ここに武田の家臣、真田家が前線基地を築いたとすると、現浅野神社の境内辺りに白鳥神社を勧請したと想像できます。すると、浅野村の東端の古町は真田家の城砦の城下街ということになるかもしれません。


▲桝形跡を下ると正見寺境内の大ケヤキ叢林が見えてくる


▲旧浅野村西組の集落のなかを緩やかに曲がる旧街道


▲正見寺の境内を囲む白壁土塀のケヤキの巨木郡


▲浅野宿を往く旧街道脇には商家が軒を連ねていた


▲街道に面した正見寺の石垣土塀の向かいにも堂宇が並んでいた


▲宝蔵院下で街道を振り返る。大ケヤキは正見寺境内の東端の目印。


▲浅野宿仲は村役人の屋敷が並ぶ宿場の中心部だった


▲浅野村庄屋の屋敷遺構の茅葺造り(今はトタン葺き)の古民家


▲ここから東は上町だったが、往古の面影はない


▲現在の旧上町区には往古の面影は見つからない

◆村の出入口は子育地蔵尊だった◆


桝形の脇にあったと見られる庚申塔や石仏

  浅野宿の西端の出入り口は、現在の浅野神社から南に100メートルくらい離れた曲り角にあった子育て地蔵尊の辺りだったそうです。ここは鉄道建設で道筋や地形が変わってしまいましたが、そこには石垣で囲まれた桝形があったそうです。現在の踏切の北側にあった桝形では街道がクランク状になっていて2回直角に曲がらないと浅野村には入れなかったのです。
  また、浅野神社はかつては白鳥神社と呼ばれていたそうです。


旅籠「信濃屋」跡の背後に見える明円寺の大鐘楼

  ところが、1876年(明治9年)の明治政府の新街道令によって荷車や馬車が通行できるように道路の改修がおこなわれたため、桝形は撤去されたそうです。そこから少し南西側にあった一里塚も撤去されました。
  子育て地蔵尊の近くには道祖神や二十三夜塔、馬頭観音があったようですが、現在は浅野神社に向かって丘をのぼる坂道の脇――20メートルほど離れた場所――に壇上に移されています。
  一方、宿場集落の反対(北東)側の出入口の鳥居川の畔にも子育地蔵尊があったそうですが、河川堤防工事と橋の全面架け換えによって近いと道筋がすっかり変わってしまいました。
  推定では、現在の鉄骨コンクリート橋よりも30メートルくらい北側に架けられていた大土橋の手前に、やはりクランク状の道筋を石垣で囲んだ桝形があったようです。
  このように、浅野の街集落の両端の道筋と地形は大きく変わってしまっていて、往古の姿を偲ぶ痕跡はありません。

◆5つの町組からなる宿場街◆

  浅野宿の西隣にある神代宿は、当初から飯山街道の宿駅となっていましたが、浅野と半月交替で交互に藩の宿場御用――藩主の送迎や輸送――を努める「相縮」でした。
  村の西端の白鳥神社の南一帯は神田と呼ばれ、そこから桝形を入ると、下組、西組、仲町、上町かんまち、古町と5つの街区が続いていました。神田という地名はおそらく神社は保有する領地の田畑と村落があったからでしょう。
  宿場の西端の地区(小集落)が「〇町」ではなく下組ならびに西組と呼ばれたのは、宿場の発足時には新開地につくられ始めた小さな村落だったものが、のちに宿場としての浅野村に編合されたからだと見られます。⇒絵地図を参照
  仲町は古くは上町と対になって下町しもまちと呼ばれていたようですが、宿場街の成長拡大――人口と住戸の増大――にともなって街の中心部となり仲町という地名になったのではないでしょうか。その仲町の西側半分は正見寺を中心とする寺町だったようです。ことに街道の南側には正見寺のに属す塔頭支院が並んでいたのではないかと推測されます。
  してみると、飯山街道と宿場の発足時――17世紀の半ば頃――には浅野宿は上町と下町だけの集落で、その東側に室町時代からの城下街だった古町が付加されていたのではないかと見られます。古町と呼ばれる集落は多くの場合、戦国時代以前に形成された城砦の周囲または近隣の集落つまり城下町で、江戸時代になって街道宿場街が建設されたさいに「古くからの町」という意味合いで古町と呼ばれるようになったのです。
⇒参考記事 長窪古町芦田古町

◆浅野上町から鳥居川を渡る◆

  江戸時代に浅野宿の上町から大倉村橋場や蟹沢村中島に行くために、現在の鳥居橋の20メートルくらい手前(西)で直角に左に折れてから直角に右に曲がって鳥居川に架かる大土橋を渡ったそうです。このクランク状の道部分は、浅野宿東端の桝形になっていたものと推定されます。
  橋の向こうには、大倉村と蟹沢村にまたがる橋場・中島と呼ばれた集落があって、溜まり醤油屋、酒屋、穀屋、旅籠、魚屋、桶屋、紺屋などの商家が河畔の街道両脇に並んでいたそうです。大土橋が架けられる前には、鳥居川を越える渡し船があったと伝えられています。
  ところが、明治9年に桝形を撤去して、クランク状の道を直した後、さらに明治時代半ば頃に中島の南の堀地区に浅野村から直接渡れるように鳥居橋を建設しました。それが、現在の鳥居橋の前身だそうです。
  その後、鉄道が建設され、その南側に浅野仲町から西組を通って直進して神代・石町に通じる道路ができました。すると、神田を通らずに蟹沢堀地区に達することができるようになって、橋場・中島の集落は寂れて衰退することになったそうです。
  そして、飯山街道のうち橋場北の辻から分岐し、大倉村を抜けて手小塚集落の手前までいたる区間も寂れていくことになったようです。


浅野から蟹沢に向かう県道399号の鳥居橋

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