■往時の地形と街道風景■
旧中山道沿いの見帰から寺坂まで――なかでも現在の上松町緑町と栄町の一帯――の地形は、小学校や体育館、住宅地などの開発・建設によってすっかり変わってしまいました。ここでは、尾張藩上松陣屋に関する史資料を素材として江戸時代の中山道と尾張藩材木奉行所、諏訪社の社叢の姿を想像復元してみました。
■尾張藩の材木奉行所■
現在、上松小学校の校庭の西脇、諏訪社の大鳥居の横に「材木役所御陣屋」の石標【右上の写真】が建っています。その場所は、上の絵図で左下にある赤い正方形の位置に当たります。そうすると、江戸時代の中山道は、校庭の西端から東に5~10メートルほど入った位置を南北に通っていたことになります。
さて、尾張藩上松材木奉行所の陣屋の敷地はほぼ長方形で、南北65間(118メートル)、東西55間(100メートル)、総面積3,575坪という大きさでした。中山道から木曾川に向かって西に傾斜するゆるやかな尾根斜面に位置していました。
こういう地形に応じて、陣屋敷地には段差があって、西端と東端では3メートル以上の高低差があったようです。東側の高い壇上に五社神社の社殿があって、水天宮、三島社、伊勢社、熱田社、御岳権現が祀られていました。五社神社は現在、諏訪社拝殿の脇に移されています。
材木役所は陣屋(野戦に備えた陣地)ということで砦としての軍事的装備が施されていました。奉行所には弓と火縄銃が各10挺が配備され、敷地の南と北にはヒノキの丸太(太さ25㎝、高さ4m)でつくった囲壁をめぐらし、四囲には高さ2メートルほどの土塁を構築し、表層を竹林または笹竹が覆っていたそうです。土塁の外側には竹矢来を施してあったとか。
北西端の丸太壁の外側には大砲1門が配置されていました――見かけ倒しかもしれませんが。
敷地内には北側から、表門側に門長屋、壇上に東長屋と五社神社社殿、西側中央部に奉行所、南側には裏長屋がありました。門長屋は入り口の監視所で、門板や衛士が詰めていたようです。屋根には物見台があったかもしれません。
東長屋は同心(最下級の番兵)が詰めていたようです。
▲1960年代の材木役所跡
敷地中央部から寝覚ノ床方面を眺める角度だと推定される。
出典:『木曾路―その野趣と没落の美―』、1966年刊
上掲の絵のように材木奉行所の脇を中山道が通るようになったのは、奉行所が設立されてからのことだと見られる。それ以前の中山道は、諏訪社の社叢を通って久保寺を経由して天狗山の尾根中腹を回って上松宿に連絡していたと推定されます。⇒参考記事
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尾張藩材木役所陣屋跡の石標と説明板▲
石標が立っている場所は、中山道沿いにあった 役所の表門を入ったところ(陣屋内)だった。
この時代の中山道は、石標よりも10メートルほど 東寄り(背後)を通っていたと推定できる。
奉行所は、尾張藩木曾領の山林行政の官庁で、山林の巡検監視を実施し、立木の伐採とか木材の出荷を許可・記録し、これらに違背がないかを検分していました。奉行はこれらの林政業務を統括していて、この業務を「白木改め」と呼んでいたようです。
裏長屋は吟味役や調役、目代、山手代と元締など奉行所吏員が常駐する職場となっていました。
◇ ◆ ◆ ◇
尾張藩の記録によると、木曾が幕府直轄地から尾張藩に委譲されて50年近く経過した1664年(寛文4年)、藩は目付が率いる役人を派遣して木曾の山林の巡検させました。すると、安土桃山時代(1580年前後)からの城郭建設や都市建設などのための木材需要に即応して乱伐され、伐採に適した山林は荒廃している事態が把握されました。
ことに尾張藩は名古屋城や城下町の建設のために大量の立木を伐採して、木材を手に入れ、残りは主に江戸での城郭建設や武家屋敷建設の需要に応じて売り払いました。福島の代官山村家は、独自の林政や山林管理の権限を与えられておらず、尾張藩の要請や江戸の需要に応じて木材の供給を請け負わされていたのです。巨額の代金収入があるので、江戸幕府からの木材供給の要請には逆らえなかったということでしょう。
その結果、山林の植生や生態系は危機に瀕していました。尾張藩は、林政を改革し山林を保護育成・管理するために、福島代官所を林政担当から外して、直轄の山林政策を担う役所を上松に設置しました。それが材木奉行所です。こうして、植林と伐採の厳格な統制の仕組みを構築して、ヒノキやサワラなど(木曾五木)を中心とする木曾の山林を回復させたと伝えられています。
原則として尾張藩の許可がなければ木曾五木の伐採は禁止され、その代わり木曾の地場産業=木工業のために年間に白木6000駄が支給されるようになりました。
戦乱の時代が終わって江戸や名古屋、大坂などでの城郭や都市の建設が一段落するまで、山林の乱伐や荒廃を抑止する山林政策は打ち出せなかったのです。
■諏訪社の社叢(鎮守の杜)■
中山道を挟んで向かい側は諏訪社の神域となっていて、社殿がある境内を含めて、鬱蒼とした樹林が東西、南北に200メートル四方に――上松小学校や町施設の全敷地を包括し、中沢の渓谷も含めて、現在の国道19号の辺りまで――広がっていました。
神域を画す大鳥居は、現在の位置よりも100メートル近く南で、小学校校庭に5メートル以上入り込んだ位置にあったと推定されます。
神社の社叢の南西端の近くの中山道沿いに阿弥陀堂があったと伝えられています。その北西側に庚申塔があったそうです。この庚申塔は今も民家脇の壇上に残っています。
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