江戸時代初期とその後の中山道の道筋と上松宿の形を比較する絵地図

◆初期の上松宿は上町と本町だけの街◆


■江戸初期の中山道■

  上掲の絵地図は、江戸時代初期の中山道の道筋ならびに上松宿の街の長さとその後の変遷を比較するための想像復元図です。

  徳川幕府の指示で建設された中山道と各宿場は、室町末期から戦国時代にかけて藤原系木曾氏が開削建設した軍道(統治と軍略のための公道)をもとにしていたそうです。
  しかしその後、幕府の統治機構の変動や幕閣の権力闘争、さらには木曾領が幕府直轄から尾張藩への移管されたことなどによって少しずつ変遷していきました。三代将軍家光によって参覲交代が制度化されたこと、つまり各藩主が中山道を行軍して江戸と藩領との間を往復することによる影響もあったと見られます。
  中山道の道筋の変更として有名かつ典型的なものは、《贄川宿を出てから桜沢沿いに東に進み牛首峠を越え、小野宿を経由して諏訪湖畔の岡谷に出て下ノ諏訪宿にいたる経路》から、《洗馬宿・山本宿を経て、塩尻宿塩尻峠を越えて下ノ諏訪宿にいたる経路》へのつくり変えです。⇒参考記事

  ことに木曾路では、危険な急流、木曾川の増水や氾濫による街道の被害などによっても道筋や宿痾駅の場所や形は変わってきました。
  中山道の経路の変遷の特徴を乱暴に要約すると、戦国時代の遺制としての軍道から商業・物流のための経済的交通体系への漸次的変遷ということになるでしょう。
  戦国時代、本町の本陣から玉林院とその裏山(天神山と呼ばれた丘)にかけて上松の領主、木曾義豊(上松蔵人)の屋敷・城館・砦があって、天狗山の裾野から上ノ山を経て尾根をのぼって久保寺や諏訪社宮の森に連絡する軍道がありました。初期の上松宿の中山道はその遺構に沿って建設されたと見られます。
  徳川家康の家臣となった義豊が1582年に遠州浜松に移封された後、この地に残って郷士となった塚本氏が屋敷跡地を保有し、やがて宿場の庄屋兼本陣を担うことになったそうです。

■材木役所設立による街道の変化■

  上松宿をめぐる環境としての尾張藩政の変革は中山道の道筋を組み換え、さらに上松宿の街の規模や仕組みを大きく変えていったようです。
  尾張藩は1664年(寛文4年)に木曾の山林政策を大きく転換しました。それまで名古屋城と城下街の建設、さらに江戸城と江戸の各藩屋敷などの建設を最優先していた山林伐採・木材供給の政策を組み換え、木曾の山林の育成と保護を林政の目標として上松宮前に藩直轄の材木奉行所を設立したのです。
  街道と宿痾駅に関する一般行政は引き続き福島代官所に担当させましたが、山林政策は上松材木役所に統括させるようになりました。大きな権限と人員を擁する役所(官庁)ができたことで、行財政や経済における上松宿の位置づけは一変しました。
  それが上掲の絵地図に示した街道経路と宿場街の形・規模の変化なのです。

■仲町と下町が宿場街に加わる■

  私は上松宿と周囲の地形や変化の痕跡を探索して、以下のような推定にいたりました。
  まず、中山道は上ノ山の一里塚の脇から天狗山の尾根をのぼって寺坂を通らないで久保寺と諏訪社の宮の森を抜けて寝覚に連絡していた道筋が、寺坂を経由して材木奉行所の脇を通る経路に変わりました。その結果、当初、上町と本町――当時は下町と呼んだか――の2つしかなかった宿場街が倍以上に拡大して、仲町と下町が加わったのです。
  尾張藩材木奉行所はおそらく小藩に準じるような財政規模と権限を保有していたので、上松宿はそういう行財政や経済に見合った大きな街に成長したのです。
  街道は上ノ山を西に迂回して寺坂の裾野から中腹を回る道筋になり、街道に沿って家並みが南に伸びていくことになりました。のちの仲町と下町が宿場街に付け加わっていったのです。


天狗山の西尾根、上松宿下町、寺坂、諏訪社の森を一望する