古い時代の木曽福島の風景
① 小丸山から見た木曽福島 上の段から上町・大手町方面(明治末期~大正初期 1910年代)
② 城山から見た福島町 上の段から大手・関所跡方面(1900年前後 明治30年代後半)
③ 上町・下町、木曾川・中央橋と代官所跡を一望する(大正末期)
④ 福島宿上町の街道と家並み(明治30年代 19世紀末頃)
⑤ 福島宿下町の街道と家並み(明治30年代 19世紀末頃)
⑥ 福島関所跡の段丘崖の下につくられた国道(1890年代から明治末期)
⑦ 中央橋と代官所陣屋跡の山林学校、小学校、郡役所(大正末期から昭和初期 1920年代)
■明治後期から昭和初期の木曽福島の姿■ |
|
上の写真の出典は、生駒勘七編著、『ふるさとのなつかしい想い出写真集 明治 大正 昭和 木曾路』(2022年刊)。撮影年代は1890年代から1920年代(明治後期から昭和初期)だと推定される。 以下、写真番号ごとに考察する。 【① 1920年代】 福島駅の北東方向に小丸山城址がある丘があって、小丸山と呼ばれている。そこからほぼ北向きに上の段から大手町・興禅寺方面を眺めた風景。鉄道は敷設されていて、左端の大屋根は大通寺、右端の大屋根は久昌院。鉄道はこの時代は単線なので、経路が今とは違っているかもしれない。 【② 1900年前後】 木曾川に架かる福島大橋の西方に城山があって、その中腹から上の段の大通寺から関所跡方面の風景。鉄道の敷設前なので、撮影時期は明治30年代後半だと推定される。関所跡から大通寺脇に向かう上の段の街道裏道がやがて鉄道用地になった。 【③ 1910年代】 街並みを抜けていく道は旧中山道で、1992年(明治25年)に桝形を撤去し起伏を均して新たな国道として整備された。画面中ほどの中央橋は1907年(明治40年)に建設された。橋の右手の建物は山林学校や小学校。 |
【④ 19世紀末】 蓬莱屋あたりが福島宿上町と下町との境界で、そこには防火壁としての高塀が築かれていた。その脇から東方の街道と家並みを撮影した写真。街道の中央にあった宿場用水や植栽はすっかりなくなっている。 【⑤ 19世紀末】 ④と同じ場所から反対方向の景観を写したもの。右端の川や屋根付きの漆喰塀が高塀で、高さは4メートル以上あった。明治25年の国道建設で、横宿の辻よりも西側ぼ木曾川の畔を左折して中八沢橋を渡り、八沢町まで行けるようになった。 【⑥ 1900年前後】 上町の東端で中山道は河岸段丘崖をのぼって関所を通るような道筋だった。明治時代に国道を建設するさいに、関所があった段丘の川岸川を開削・切通して、荷車や駅馬車が通行できるようにした。 【⑦ 1920年代】 上町の町家から木曾川と両岸を撮影したもの。中央橋の右手には山林学校の2棟の校舎が見える。一番奥に見えるのが小学校で、その手前が郡役所庁舎だと思われる。中央橋の背後の大手橋は、トラス式の鉄橋になっている。 |
| 前の記事に戻る |