◆木曾川本流と分流に挟まれた中州があった◆



▲1920年代までの木曾福島の地形を示す絵地図⇒拡大図

◆分流を埋め立てて市街地を建設◆

  上の絵地図は、1920年代(昭和初期)までの木曾福島中島地区の地形(古地理)を想定復元したものです。 江戸時代、中州だった中島と木曾川分流としての塩、そして中山道をめぐる地形を想像復元した鳥観図を下に掲載しました。
  古地理の推定復元にさいしては、昭和初期までの木曾福島の風景・地形を撮影した写真を参考にしながら該当する場所を調査・探索しました。

  明治中期までは、木曾川上流部のダムなどの貯水力・流水量の調整能力はきわめて限られていたため、木曾川の水位は現在よりも数メートル高かったのです。それゆえ、横宿よりも西側には幹線となる道路はできませんでした。
  やがて治水技術が発達するとともに、明治25年(1892年)に、旧下町から横宿を経て上の段にのぼる経路を避けて、新街道令にしたがって木曾川河畔を通る国道が建設されました。
  そのさい、国道用地を確保するために河岸段丘を削り、さらに「やぼら清水(藪裏清水)」の西まで張り出していた上の段の丘斜面を削って、新国道の両脇に家並みが建てられるように地形を均したと見られます。
  その時点では行人橋はまだなかったので、この新たな国道は、西方寺(現在地)の下で左折して八沢橋を渡り八沢町通りに入り、駅坂の下で右折して木曾川の分流の畔を往く崖下の経路で現在の塩渕交差点に向かいました。
  この国道建設工事では、駅坂の下から塩渕交差点まで続く高台段丘の縁を削って、分流の畔に道路用地を確保したため、段丘崖はさらに急斜面になりました。それ以前は、段丘崖は今よりも傾斜が緩い傾斜だったようです。⇒関連記事
  こうして、荷車や乗合い馬車が円滑に通行できるようになりました。それ以降、急速に新国道沿いに街並みが形成され、中心市街地ができ上りました。それまでは、上の段から八沢町を経由する旧中山道を通るしか福島を通過する道はなかったのです。
  その頃は、新国道の段丘下を木曾川の分流が流れていました。この分流は塩渕と呼ばれていたようです。そして、木曾川本流と塩淵に挟まれた大きな中州があって、これが中島と呼ばれていました。


富田町の地蔵堂
往古、背後は崖ではなくもっと傾斜の緩い斜面だった。 旧中山道はお堂の脇から斜面をのぼっていった。

  中島には農民集落があって、水田を中心に肥沃な農耕地帯が広がっていました。ところが1930年(昭和5年)、分流(塩渕)を埋め立てて中島地区を旧市街や福島駅がある高台や八沢町と接合して新たな中心市街地を建設する計画が始まったそうです。

  塩渕と呼ばれた木曾川の分流の痕跡は、崖から滝として流れ落ちてからの前沢川の流れとしてわずかに残されています。もちろん、川幅は何十分の一にも小さくなってしまいましたが、小川の流路がほんど埋め立てられた塩渕の痕跡となっているのです。


塩渕交差点近くを南西向きに流れる前沢川▲

この小川が埋め立てられた分流の痕跡▲

向かいの山麓が木曾川右岸をなしている▲

この先がかつての塩渕と木曾川本流の合流部らしい▲

  その結果、木曾川の分流としての塩渕はなくなり、塩渕という地名だけが残ることになりました。こうして、やがて昭和中期になると、西方寺西脇から行人橋を渡って木曾川左岸を現在の福島大橋の東袂まで行く、さらに新たな国道が建設されることになりました。
⇒古い写真で木曽福島の姿の変遷をたどる


江戸時代の塩渕、中島、中山道