明治25年、上の段を迂回して下町から八沢町を経由して木曾川の分流(塩渕)沿いを往く国道が建設されました。これが明治時代の新中山道です。この道路は町役場や駅がある高台の段丘崖下につくられ、木曾川の中州である中島を塩渕の流れの対岸に見ながら行き来する道でした。 ◆塩淵を往く明治時代の国道◆ |
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明治時代の国道の崖擁壁に建てられた崖屋づくりの駅前店舗。道路の右脇には木曾川の分流が流れていた。 |
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▲南から眺めた塩渕交差点:県道268号の坂の上は駅と町役場方面 ▲県道268号の法面の下を往く小径が旧国道 ▲駐車場はかつて分流を埋め立てた跡地 ▲御嶽本宮の脇を流れる沢が人工的な滝になって流れ落ちる この沢は御嶽本宮のご神水で、滝はご神体だったらしい ▲駅前の観光施設や店舗(崖屋づくり)を崖下の道から眺める ▲道路の西脇には住宅や店舗が並んでいる ▲僧形100年を超える旅館は古民家風のつくり ▲富田町の地蔵堂。江戸時代の中山道は、現在の鉄道よりも東側から高台斜面を下って地蔵堂の脇に降りてきたという。 ▲富田町で来し方を振り返る ▲駅坂の下で県道268号(旧国道)は八沢町に合流する ここは福島宿の加宿の役割を担う八沢村の南端で、せいぜい幅1間くらいの旧中山道が富田町の地蔵堂脇からここまで通っていた。 ▲路地の向こうに河岸段丘の下に流れる木曾川が見える ここは中州の北端だった地点の対岸で、木曾川が本流と分流に分かれる位置だったと見られる。 ▲駅坂の上り口でも見上げれば段丘高台が続いている 旧国道沿いの富田町まで続いていた段丘斜面は、昭和期に駅坂通りを拡幅するために切り通されて、現在のような崖状の地形になったという。江戸時代には駅坂はなかった。 |
◆段丘が重層する木曾福島の地形◆ 徳川幕府が建設した街道=宿場制度は、中世末期から戦国時代の軍事的制度を踏襲した交通体系であり、統治の仕組みでした。それゆえ、その狭苦しい限界は、徳川の平和秩序のもとで発達していく経済や物流としばしば衝突していました。
殖産興業と近代的工業の育成をめざした明治政府は、明治維新後に新街道令を施行し、荷車や乗合馬車の通行を阻害する桝形を撤去させ、経路の曲折や段差・起伏を解消して、円滑な交通体系の建設をめざしました。やがて、明治政府は国道の制度化を試みました。
◆駅前の段丘縁に並ぶ崖屋店舗◆ 塩渕交差点から東に見上げる高台上には町役場庁舎があります。ここでは明治時代の国道とともに、県道268号が北東に向かいます。この県道は昭和後期から整備されてきた道で、段丘崖を横切ってのぼって駅にいたります。
段丘崖斜面に崖屋と呼ばれる建物が建築されるようになったのは、木曾川の治水技術が向上し、1892年(明治25年)に国道が建設されてから以降のことです。とくに鉄骨や鉄筋づくりの技術が発達する高度経済成長期には駅前広場の崖縁に四階を越える崖屋が軒を連ねるようになりました。 |
■塩渕の旧国道をめぐる地形の断面■ |
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