1920年代の木曽福島の風景
■1920年代の木曽福島 中島地区と塩渕■ |
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上の写真の出典は、生駒勘七編著、『ふるさとのなつかしい想い出写真集 明治 大正 昭和 木曾路』(2022年刊)で、大正末期から昭和初期にかけて撮影された写真と推定されます。 1920年代末――大正末期ないし昭和初期にかけての時代――まで、木曾川に合流する手前の八沢川に架された行人橋の200メートルくらい下流から塩渕交差点の西方辺りにいたる地点は、本流と分流に挟まれた中州で、中島と呼ばれていました。 1930年(昭和5年)、分流を埋め立てて中島を旧市街地に編合し、それまで水田を中心とする農耕地帯だった中島を新たな中心市街地として開発する計画が開始され、現在の地形(中心市街地)が形成されました。 |
現在、木曽福島駅、駅前観光商店街、木曾町役場がある段丘高台の崖斜面のまぎわまで木曾川の分流が縁を洗っていたのです。塩渕交差点から崖下を通って八沢町まで続く小径は、明治末期に国道として建設されました。 通称「駅坂」とよばれている坂道を下り切った地点の西側から関西電力福島測水所の対岸付近まで、およそ700メートル以上の長さで最大幅200メートル余りの――サツマイモを横から見たような形の――中州があったのです。しかし今、そういう地形の歴史的変遷について知る人も語る人もほとんどいません。 旧中山道が下町から下町・横宿を経て上の壇にのぼり八沢町にいたる道筋となって理由は、この地形にあるのです。 |
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