◆取水ダムかいわい◆



▲左から中山道遊歩道、下の段丘を往く県道461号(鳥居本町線)、木曾川

▲関西電力の取水ダム 発電用の水をここで取り入れて送水管で発電所に流す

▲取水ダム堰堤によって蓄えられている水

▲県道451号が木曾川沿いを北に向かう。画面中央はJR東海の鉄道用変電所。

▲上流にダムがなかった江戸時代、木曾川の流水量はこれくらいだったかもしれない

▲木曾川の勾配はきついので、広胖橋の辺りでは水深が浅くなっている。
1930年頃まで、この辺りで木曾川の分流、塩渕が本流に合流していたという。

  江戸時代の中山道は、高台の鳥居から中平の谷間に降りてきて、さらに福島宿の西に位置する木曾川の畔、塩渕にいたりました。
  現在の福島大橋辺りから行人橋辺りまでの木曾川左岸を塩渕と呼んでいたそうです。

  昭和初期までは、木曾川と八沢川との合流地(行人橋)から200メートルくらい下流地点で木曾川は2つに分流し、東側の分流を塩渕と呼んでいたようです。本流と塩渕に挟まれた中州を中島と呼んでいました。
  中島の形は北東方向から南西方向を長軸とする流線型で長さ約700メートル、幅200メートルくらいだったと見られます。
  川やその流域の地名としてについて「塩」という字を用いるのは、流れが向きを変えたり蛇行したりしている場所で、「渕」とは本流ではない分流を表しているのでしょう。

  上田では上田城の本丸西端の崖下を流れていた千曲川の分流を尼ケ渕と呼んでいました。

  さて、昭和初期まで中島は水田地帯だったそうです。1930年(昭和5年)から塩渕と呼ばれた分流を埋め立てて、道路網と商業集積地をつくり中心的な市街地に変えるという計画が進められました。
  塩渕という地名の謂れについては、塩の荷駄を背に載せて運んでいた馬が倒れ込んで、流水のなかに塩が溶けて失われてしまったという故事による、という説もありますが、やはり木曾川の流れと地形によるものと考えられます。
  現在の中山道遊歩道は、取水ダム(福島大橋)の傍らで県道461号と合流しますが、木曾川の水位が高かった往時は、変電所の南東寄りの斜面――県道よりも2メートルくらい上――を通っていたと推定されます。
⇒塩渕と中島の地形の変遷に関する記事


▲木曾川左岸から町役場がある高台丘を眺める⇒拡大した写真を見る

▲木曾川右岸から福島駅や町役場がある段丘を眺める⇒拡大した写真を見る

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