明治から昭和期までの宮ノ越宿の姿


1890年頃の宮ノ越宿の姿: 撮影地点は現在の公民館の背後の段丘上にある単線鉄道の路盤か。 出典:生駒勘七編著、『ふるさとのなつかしい想い出写真集』


1960年代の宮ノ越宿の街並みと周囲の地形(山並み)。撮影場所は上記の近くで数メートル東寄りか。 出典:『日義村誌』歴史編上


脇本陣の前から旧中町方面を眺めた風景: 前庭のような植栽と並木が通りの東側にあって、その前を宿場用水が流れている。
街道の奥にある自動車の形から、撮影時は1930~40年代ではないかと推定できる。 出典:同上

■1890~1960年代の宮ノ越宿の姿を探る■

  上掲の写真は、明治中期から昭和前期ないし中期の宮ノ越の街並みと周囲の地形を撮影したものです。出版物の写真図版には撮影時についての記述がないので、撮影年代は推定です。

  宮ノ越宿は、明治16年(1883年)の大火災で大方が消失してしまったということなので、一番上の写真は、その後に再建されて10年近く経過した時点の街並みの姿だと推察されます。
  本陣のあたりの樹林と高木群は残っているので、樹林帯が本陣の客殿の焼失を防いだのかもしれません。そして、現在の寺橋から北側には、ほとんど家並みがないことも確認できます。
  二番目の写真は、1960年代半ばないし後半の時期に撮影されたものと推定できます。
  推定の理由は、街並みのなかの家屋の屋根が一部分、石置き板葺きからトタンに変わり始めているからということ、画面右上の山麓の高台の河畔側が新設の国道19号の擁壁とするべく整然と切り通され、あるいは嵩上げされて、(おそらくコンクリート製の石垣で)補強されているからということです。
  また、寺橋から北側の木曾川左岸――鉄道の下――が整地造成されて、1世代前の国道19号が建設されているらしく、しだいに道路沿いに家並みが北に向けて伸び始めている状況も読み取れます。
  この時期には、この幅の狭い旧街道が国道19号だったのです。しかし、1970年代になるとバスやトラックなど大型車が通行するようになり、家並みを両側それぞれ1.5メートル以上後退させて国道は拡幅され、舗装されていきます。
  やがて、宿場よりも上の段丘上を通る山麓の新道が国道19号になり、旧街道は県道に格下げになりました。
  一番下の写真が示すのは、昭和20年代までは、脇本陣から南側の旧街道東脇には前庭植栽や垣根あるいは並木があって、その手前に宿場用水が流れていたこと、この緑地の背後に町家が軒を連ねていたことです。
  この道が明治25年頃に指定された「国道」だったのです。高度経済成長が始まって十数年くらいの間は、まだまだモータリゼイションは木曾路までは及ばず、自動車の通行量も相当に限られていたので、このように道の片側に用水路が流れていたり、植栽や並木があったりしても、さほど障害として意識されることはなかったようです。
  ところが、そういう伝統的な街並み景観は、高度経済成長の成果が木曾路に波及するにつれて変化し、1970年代後半から消え去っていったようです。

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