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長野県木曽郡木曽町
 

鉄道が敷設してあるので1890年前後(明治20年代)の撮影ではないかと推定できる
  宮ノ越宿については、平安時代末期の木曾義仲の台頭と挙兵の話題ばかりが目立ちます。残念なことに、その前後の歴史、中山道宿駅としての宮ノ越の歴史や地理、文化についてはほとんど語られることがありません。
  明治時代に大火があって宿場街の大方が消失し、史料・文物が失われたことが最大の原因です。が、地区の歴史や文化を調べた、今は亡き古老たちの知識と経験を継承できなかったことも大きな要因です。
【写真は、明治中期の宮ノ越宿の姿 出典:生駒勘七編著、『ふるさとのなつかしい想い出写真集』】

往時の宿場街を想像する


伝統的な宿場町家づくりの家並みが復元保存されている一角

  宮ノ越を取材中に出会った人たちの話では、この地の歴史や伝統文化に詳しい高齢者はほとんどが亡くなってしまっていて、宿場の昔の姿や生活に関する知識を得ることができないようです。
  それでも、この一帯を歩いて探索し、現在の地形や残された写真などの史料をもとにして、宮ノ越宿の歴史や地理について推定を試みることにします。
  そのさい、これまで歩いて取材してきた木曾路の宿場街の情報を参考にしながら、この町の昔の姿を想像してみます。
  明治16年(1883年)、宮ノ越宿で大火が発生し、街並みの大方は宿場の家々にあった史料や文物とともに焼失してしまったそうです。木と紙でできた伝統的な町家は火災の被害を受けやすいので、仕方がありません。とはいえ、この地方の歴史や文化を知り、昔からの生活風習などを身をもって体験していた人たちから知識や経験を継承してまとめることができないままに、長い時が過ぎてしまったことは、かえすがえすも残念です。

■明治の大火で街並みが消失■

■木曾路では中規模の宿場街だった■

  右に天保期の木曾路の宿駅の大概帳に記された数値を表にして掲載しました。
  宮ノ越宿は街並みの長さが474メートルで須原宿とほとんど同じ規模です。この長さを、現在の旧街道沿いの姿に当てはめてみると、だいたい宿場街南西端の公民館や道祖・神石仏群から寺橋辺りまで続く家並みということになります。


寺橋から木曾川下流を眺める


寺橋から上流と義仲橋を眺める

  してみると、このページのトップの写真は明治中期の宮ノ越の街並みを撮影したものと推定できますが、この画面に写されている街並みが、江戸時代の宿場街の姿ということになります。画面の一番下側の屋根が、ほぼ現在の公民館に当たります。この頃には、伝統滝な木曾路の町家が軒を連ねていたのです。雅語を用いると、家々が「櫛比していた」のです。
  江戸時代のはじめの頃、宿場街が発足したばかりの頃には、おそらく街区は上町(「かんまち」と読む場合が多い)と下町の2つだけだったのではないでしょうか。やがて集落が成長拡大していくと、中町という町組がつくられるようになった場合が多いようです。宮ノ越もそうかもしれません。
  木曾川沿いの宿場街のほとんどは、街道における上下(京都に近いか遠いか)関係ではなく、木曾川の流れに沿って上流部が上町と呼ばれ、下流部が下町と呼ばれていました。宮ノ越宿もおそらく同じ呼び名で街区(町組と呼ぶ)を区分して、往時の最小の行政単位としていたと見られます。
  私の推測では、寺橋近くから脇本陣跡辺りまでが上町で、その南端に防火(類焼回避)のために広小路と呼ばれる幅広の道が街道の両側に設けられ、そこに高塀と呼ばれる防火壁が置かれていたと推定できます。高塀の大きさは、厚みが約60センチメートル、高さ5メートル、奥行き18~30メートルの壮大な防火壁です。江戸末期には、高塀の腰壁には海鼠が施され、塀の頂部は上等な瓦葺き屋根となっていました。筋違いかもしれませんが、街道の向かい側にも同じような仕組みがあったはずです。
  そこから現在の中町バス停の辺りまでが中町で、南端にやはり街道と交差するように(筋違いかもしれない)広小路があって、やはり高塀が街道両側に設けられていたと見られます。そこから南西側が下町となっていたようです。広小路は幅4メートルほどはあって、須原宿では幅10メートルもありました。

■江戸時代の中山道の経路■

  ところで、江戸時代の中山道は、現在の義仲橋の辺りで木曾川右岸に渡り、徳音寺の手前で北に曲がり、山吹山に続く険しい尾根裾を北進し、木曾川河岸にある徳音寺集落に向かいました。徳音寺集落は古い村で、平安時代に徳音寺の前身、柏原寺が創建されて以来の門前町で、18世紀まで真言密教の修験の拠点となっていたようです。
  徳音寺集落の北端にある巴淵は、東に突出した山吹山を回り込んで蛇行してきた木曾川が、ほぼ直角に曲がるところです。旧中山道は、巴淵に落ちる細い滝沢を渡ると、山吹山の裾を回り込んで吉田(木祖村管地区)の一里塚に向かいます。この区間の旧街道は、崖斜面にへばりついた細い杣道で、人ひとりがようやく通れるくらいに険阻だったそうです。

  さて、宮ノ越宿の街並みは現在の義仲橋の辺りで途切れます。その北側では、東側の山から尾根裾斜面や河岸段丘崖が木曾川の縁まで迫っていたので、家並みも見あたらない山林となっていたものと見られます。⇒参考記事
  明治25年頃、明治政府の政策として進められたの国道建設では、だいたい旧街道の道筋に沿って道路がつくられました。馬車や荷車が円滑に通行できるように、拡幅し桝形を撤去したものの未舗装道路でした。巴淵では橋を右岸に渡って徳音寺集落の旧街道をなぞる経路で、その道筋は昭和前期に国道19号となり、戦後に舗装され、現在の県道267号の元になりました、
  一方、木曾川左岸では巴淵から義仲橋までは山裾から斜面が川縁まで迫っていて、明治時代の土木技術では道路の開削はできなかったのです。ただし、明治末になると、この区間の河岸段丘上に単線の鉄道が敷設されました。

■本陣・脇本陣前から中町の街路■

  江戸時代の幕府直轄の街道や主要な街道では、平坦地が確保できる宿場の街道では中ほどに宿場用水を流し、街道脇に並木や植栽を配し、各町家の街道側には前庭を整えるように道中奉行または管理を委託された各藩によって命じられていました。並木の整備や冬場の雪かきに、近隣の集落の人びとが動員されました。
  したがって、街場のなかの街道風景は、通りをせせらぎが流れ、緑地帯に縁取られたことのほか美しい庭園風の並木や草花に覆われた里山景観が演出されていたのです。そういう風景は、今でも滋賀県や岐阜県の旧街道沿いに見られます。
  信州では、部分的なものですが、旧北国街道海野宿(東御市海野町)と旧北国西街道郷原宿旧三州街道小野宿(南小野)に残されています。
  険しい地形の山間を往く中山道木曾路では、例外的に、木曾川河畔の平坦地にある宮ノ越宿の上町の本陣前から中町までの区間に宿場用水と前庭植栽(並木)からなる美しい街道景観があったそうです。詳しくは特集記事(次ページ)を参照してください。

宿場の規模 天保14年(1843年)   
 宿駅名  宿長(m)  戸数  人口
  贄 川  502    124   545  
  奈良井  928    409    2155  
  藪 原 553   266    1493  
  宮ノ越  474    137    585  
  福 島  387    158    972  
  上 松  580    362    2482  
  須 原  475    104    748  
  野 尻  658    108    985  
  三留野  235    77    594  
  妻 籠  252    83    418  
  馬 籠  364    69    717  
*各宿場ともに財政危機で18世紀末よりも2割
ほど戸数と人口が減少していると見られる。


公民館・石仏群の辺りから下り坂となる中山道▲


旧中山道は緩やかに曲がりながら木曾川に近づいていく▲


旧下町と中町との境界はこの辺りだったかもしれない▲


修復され、保存されている伝統的な本棟出梁造りの旅籠田中底▲


ここが街並みの中央に位置する辺りか▲


旧上町の中心部にある脇本陣跡の前から北の眺め▲


本陣跡の薬医門は格式を上げて改築されたものらしい


本陣跡から北側の街並みの眺め


往古の宿場街の北端はこの辺りだった(寺橋の袂から北の眺め)▲


寺橋から上流部に架かる義仲橋を眺める▲

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