■木曾路では中規模の宿場街だった■
右に天保期の木曾路の宿駅の大概帳に記された数値を表にして掲載しました。
宮ノ越宿は街並みの長さが474メートルで須原宿とほとんど同じ規模です。この長さを、現在の旧街道沿いの姿に当てはめてみると、だいたい宿場街南西端の公民館や道祖・神石仏群から寺橋辺りまで続く家並みということになります。
寺橋から木曾川下流を眺める
寺橋から上流と義仲橋を眺める
してみると、このページのトップの写真は明治中期の宮ノ越の街並みを撮影したものと推定できますが、この画面に写されている街並みが、江戸時代の宿場街の姿ということになります。画面の一番下側の屋根が、ほぼ現在の公民館に当たります。この頃には、伝統滝な木曾路の町家が軒を連ねていたのです。雅語を用いると、家々が「櫛比していた」のです。
江戸時代のはじめの頃、宿場街が発足したばかりの頃には、おそらく街区は上町(「かんまち」と読む場合が多い)と下町の2つだけだったのではないでしょうか。やがて集落が成長拡大していくと、中町という町組がつくられるようになった場合が多いようです。宮ノ越もそうかもしれません。
木曾川沿いの宿場街のほとんどは、街道における上下(京都に近いか遠いか)関係ではなく、木曾川の流れに沿って上流部が上町と呼ばれ、下流部が下町と呼ばれていました。宮ノ越宿もおそらく同じ呼び名で街区(町組と呼ぶ)を区分して、往時の最小の行政単位としていたと見られます。
私の推測では、寺橋近くから脇本陣跡辺りまでが上町で、その南端に防火(類焼回避)のために広小路と呼ばれる幅広の道が街道の両側に設けられ、そこに高塀と呼ばれる防火壁が置かれていたと推定できます。高塀の大きさは、厚みが約60センチメートル、高さ5メートル、奥行き18~30メートルの壮大な防火壁です。江戸末期には、高塀の腰壁には海鼠が施され、塀の頂部は上等な瓦葺き屋根となっていました。筋違いかもしれませんが、街道の向かい側にも同じような仕組みがあったはずです。
そこから現在の中町バス停の辺りまでが中町で、南端にやはり街道と交差するように(筋違いかもしれない)広小路があって、やはり高塀が街道両側に設けられていたと見られます。そこから南西側が下町となっていたようです。広小路は幅4メートルほどはあって、須原宿では幅10メートルもありました。
■江戸時代の中山道の経路■
ところで、江戸時代の中山道は、現在の義仲橋の辺りで木曾川右岸に渡り、徳音寺の手前で北に曲がり、山吹山に続く険しい尾根裾を北進し、木曾川河岸にある徳音寺集落に向かいました。徳音寺集落は古い村で、平安時代に徳音寺の前身、柏原寺が創建されて以来の門前町で、18世紀まで真言密教の修験の拠点となっていたようです。
徳音寺集落の北端にある巴淵は、東に突出した山吹山を回り込んで蛇行してきた木曾川が、ほぼ直角に曲がるところです。旧中山道は、巴淵に落ちる細い滝沢を渡ると、山吹山の裾を回り込んで吉田(木祖村管地区)の一里塚に向かいます。この区間の旧街道は、崖斜面にへばりついた細い杣道で、人ひとりがようやく通れるくらいに険阻だったそうです。
さて、宮ノ越宿の街並みは現在の義仲橋の辺りで途切れます。その北側では、東側の山から尾根裾斜面や河岸段丘崖が木曾川の縁まで迫っていたので、家並みも見あたらない山林となっていたものと見られます。⇒参考記事
明治25年頃、明治政府の政策として進められたの国道建設では、だいたい旧街道の道筋に沿って道路がつくられました。馬車や荷車が円滑に通行できるように、拡幅し桝形を撤去したものの未舗装道路でした。巴淵では橋を右岸に渡って徳音寺集落の旧街道をなぞる経路で、その道筋は昭和前期に国道19号となり、戦後に舗装され、現在の県道267号の元になりました、
一方、木曾川左岸では巴淵から義仲橋までは山裾から斜面が川縁まで迫っていて、明治時代の土木技術では道路の開削はできなかったのです。ただし、明治末になると、この区間の河岸段丘上に単線の鉄道が敷設されました。
■本陣・脇本陣前から中町の街路■
江戸時代の幕府直轄の街道や主要な街道では、平坦地が確保できる宿場の街道では中ほどに宿場用水を流し、街道脇に並木や植栽を配し、各町家の街道側には前庭を整えるように道中奉行または管理を委託された各藩によって命じられていました。並木の整備や冬場の雪かきに、近隣の集落の人びとが動員されました。
したがって、街場のなかの街道風景は、通りをせせらぎが流れ、緑地帯に縁取られたことのほか美しい庭園風の並木や草花に覆われた里山景観が演出されていたのです。そういう風景は、今でも滋賀県や岐阜県の旧街道沿いに見られます。
信州では、部分的なものですが、旧北国街道海野宿(東御市海野町)と旧北国西街道郷原宿、旧三州街道小野宿(南小野)に残されています。
険しい地形の山間を往く中山道木曾路では、例外的に、木曾川河畔の平坦地にある宮ノ越宿の上町の本陣前から中町までの区間に宿場用水と前庭植栽(並木)からなる美しい街道景観があったそうです。詳しくは特集記事(次ページ)を参照してください。
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