十二兼集落の北端近くの崖の下を渓流が流れています。八人石沢と呼ばれる急流です。 江戸時代には、この沢の畔を中山道が通っていました。沢の堰堤の北岸辺りには明治末まで大岩があって、道を狭めて人びとの通行を妨げていたそうです。17世紀中葉、そこで山伏たちが争いを起こして刃傷事件が発生したという記録があります。事件現場痕を探ってみましょう。 ◆街道通行をめぐる悲劇的な事件の跡◆ |
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八人石沢は十二兼の集落の北端の段丘崖下を木曾川に流れ落ちていく。堰堤滝の向こう岸(北岸)に大きな岩があったという。 |
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▲崖下下側の「新屋」という屋号の家。これが十二兼村の北端。 ▲段丘崖下を往く国道19号。橋梁の下に八人石沢が流れる ▲崖縁の「花戸」という屋号の前から野尻城山を眺める。 画面中央の大杉の根元に八人石という大岩があったそうだ。 ▲崖下の八人石沢へと急坂を下る中山道。谷底を八人石沢が流れる。 ▲砂防堰堤が滝をつくる。沢の対岸の道脇に八人石があった。 ▲八人石沢と堰堤。向こう岸に大岩があった ▲堰堤滝の下谷底を清冽な水が流れる沢の底はコンクリート ▲現在は舗装された町道から国道19号に連絡している 山伏の乱闘刃傷事件の場素が十二兼の沢沿いと取り違えられたのは、山岳修験の拠点としての熊野権現十二社のある地なので、各地から山伏たちが参集のが当然と見られていたからでしょう。 |
■死傷者が出た刃傷事件■ 『木曾路道中記』には、現在の八人石沢の堰堤滝の北岸辺りに「八人石」と呼ばれる大岩があったと記されているとか。ただし地元の古老によると、読み方発音は本来、「はちにんしゅ」あるいは「はちにんし」だそうです。
野尻村の伝承では、現在の八人石沢ではなく、そこから400~600メートル北にある旧野尻村の勝井坂の近くを流れる「小久保が洞」と呼ばれる沢が「はちにんしゅ」の本来の場所だという説話があるそうです。事件の場所が誤って伝聞された結果、十二兼集落の北端の沢筋が八人石となったとも考えられます。 ■沢畔を往く中山道■ しかしながら、沢畔(北岸)の道に大石があったのは八人石沢です。往時の中山道は、現在の堰堤がある地点まで谷をのぼって、そこで沢岸両岸に藤や葛を投げ渡して架けた――橋脚のない――橋を渡って通行したのだそうです。そこが谷の幅が狭まっていたからでしょう。 ■錯綜した物語を整理すると・・・■ ところが、八人石をめぐる伝承・逸話には辻褄が合わない錯綜したところがあります。 |
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