十二兼の高台集落を歩き始めてすぐに、私の心には「ここは古い熊野信仰の修験霊場だ」という直感(直観)がはたらきました。 木曾川を西端の境として二反田川と与川に挟まれた険しい山域で、峰々の形が「熊野修験の奥駈道」を彷彿とさせるからです。標高1100メートルの野尻城山の山頂部に続く鋸の歯のような形状の稜線と袖山の山塊は、熊野の山伏(修験者)たちが、まさに垂涎して求めた理想の修行場所に違いない・・・と。


◆密教修験の場だったと見られる山域◆



左奥手が起伏の激しい野尻城山で、右手前が袖山中腹の尾根。この尾根峰に熊野権現の中社があったようだ。



▲十二兼を取り囲む山並み。野尻城山の標高は1100m。国道19号に連絡する県道の土手は補修工事用のシートに覆われている。


▲国道の向こう側の段丘上に見える集落の家並み。その背後にそびえる袖山(標高970m)は、城山とは尾根伝いに行き来できる。



▲崖縁の「花戸」という屋号の前から野尻城山を眺める。
 画面中央の大杉の根元に八人石という大岩があったそうだ。


▲熊野社から袖山に向かう林道。昭和中期に建設されたらしい。


▲目の前の尾根丘の上に熊野権現社跡がある


▲昭和中期にはここに味噌蔵があったそうだ。道路は中山道。


▲1960年頃まで家の玄関先を街道が通っていたそうだ


▲この家の軒下縁側の前は街道だったそうだ

十二兼から羅天の木曾谷はことのほか険しかったため、道案内を兼ねた「割地役」が旅人や荷物を運び休泊の手配をしたという。十二兼の村と住民は、三留野宿と野尻宿の補佐役=加宿としての役務を割り当てられていたと見られる。

■地形・地理的条件■

  十二兼が熊野信仰による修験場となったと考える理由は、その地形すなわち地理的条件ゆえです。
  木曾川と二反田川と与川に囲まれた山域は、山岳修行に好適な場所です。十二兼の高台の北には野尻城山がそびえていますが、その山頂部は鋸歯のような起伏に富んだ稜線をなしていて、その形は熊野古道の奥駈道ときわめてよく似ています。
  しかも、そこから南に延びる尾根続きにそびえる袖山もまた、熊野奥駈道にいたる尾根古道に似ています。これらの山並みに囲まれた懐のような十二兼の高台は、修験の拠点集落を営むのに適しています。何より、この集落には熊野権現社が今でも存在しています。
  そして、集落の東側背後に迫る比較的になだらかな尾根峰には、社殿の遺構が残されています。これは、北信濃の密教修験場だった戸隠にある「中社」と地理的な位置関係がよく似通っています。すると十二兼の集落に現存する熊野社は「里宮」ということになりそうです。
  信濃の北端にある戸隠よりも、紀伊熊野に近く、冬の降雪量も少ない十二兼は、熊野信仰の修験場としては、よほどにふさわしかったでしょう。奈良~平安時代から江戸時代まで、修験者=山伏たちがこの地を拠点に畿内や美濃と信濃との間を頻繁に行き交ったのでしょう。
  八人石の謂れとなっている物語では、信濃の山伏と美濃の山伏が出会って諍いとなった事件を伝えていますが、まさにこの近辺を拠点に山伏たちが離合集散を繰り返してきたという歴史を示唆しています。
  彼らは、平城や平安の都と信濃を結びつける古中仙道を開拓した人びとだったのです。

■集落内の往古の中山道■

  さて、十二兼の村落を通っていた中山道は、現在の舗装道路とは少し道筋が違っていたそうです。私はこの集落の取材中に、「茶屋」という屋号のお宅の末裔と偶然に出会って、お話をうかがいました。
  その話によると、昭30年代半ば(1960年頃)、当時の家の玄関前、現在の庭先を中山道が通っていたものを東の山際に5メートルほど移設して整備したのだそうです。
  したがって、中山道の移設整備(経路変更)までは、家敷地は中山道によって東西に分断されていました。街道を挟んで向かい側(東側)に味噌蔵を置いていたそうです。祖父から聞いた話では、この家門は古くは熊野権現社の禰宜(神官)を務めていたそうです。
  うかがった話をもとに調べてみると、江戸時代には、旧街道沿いに「大脇」「大家」「あでち」「茶屋」「せど」という屋号の家々が並んでいたものと見られます。これらの家のもともとの姓は、大脇、藤原、田口などで、室町時代には熊野権現の神官団(禰宜職)で、寺社両方を兼ねた宿坊を営んでいたようです。


「茶屋」という屋号のお宅。江戸時代の月当番の木札(看板)が今もある。往古には禰宜だったという。

  江戸時代にはこれらの家門は、中山道沿いの村楽落を形成すべく、幕命(道中奉行の指示)によって街道沿いに移住させられ、街道の貨客の輸送や休泊にかかわる役務を割り当てられていたと見られます。参覲の旅をする大名家や幕府の役人、朝廷の使者などに対しては、宿泊や休憩のサーヴィスを提供したり、険阻な山間の道を案内しながら馬を使役して貨客の輸送を担っていたのでしょう。
  してみると、「茶屋」という屋号の家は、街道案内役と貨客輸送役を兼ねた休泊所となっていたのでしょう。私は、このお宅に今も保存されている月当番の木札(看板)を見せていただきました。
  江戸中後期には、その家の前の広場――街道を挟んで向かい側――が荷役馬方たちが集まって休憩する立場となったと見られます。明治以降、この立場跡地に味噌蔵を建て、この味噌蔵は昭和中期に街道を移設整備するまであったのです。

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