前回の記事では、三留野東山神社仮宮から上の原を経て結い庵まで与川道を探索した経過を報告しました。 今回の旅は、往古の道跡を探りながら正善沢を越えて胡桃田まで辿り、さらに下山沢の谷を抜けて与川を渡り、須合平をめざします。与川水系(与川本流とその支流群)が形成した谷間を辿る旅となります。


◆与川水系が形成した谷間を往く旅◆



坂本平付近の与川の流れ。勾配がさほどきつくない谷底を清冽な水が流れている。

  結いの庵まで与川道を歩いてきての印象を言うと、たしかに木曾川の谷間に比べてはるかに峻険さが小さく安全な脇往還だっただろうということです。言い換えれば、なぜ与川道が中山道の本道とならなかったのか疑問がわきます。与川の谷間を往く経路で古道を開削した古代の人びとの知恵と自然観察の深さに感嘆します。 さしたる土木建設技術を備えていなかった往古、地形を正確に把握して安全な通行の経路を切り開いたのは、じつに素晴らしいことだったと思います。





▲江戸時代、三留野村と与川村との境界線だった正善沢


▲正善沢:堰堤によって落差による土石流を防いでいる


▲橋の上から清冽な水が流れる渓谷の底を見る


▲送電等の方から叢林草原を抜けて杉林に入ってくるのが旧街道


▲正善沢に向かって下っている谷斜面続く杉林のなかを往く


▲杉林が途切れ旧街道は舗装道路のヘアピンカーヴの先端に連絡


▲与川の支流の沢を越える橋を渡る。赤い屋根の家に注目!


▲沢の渓谷と橋を振り返ると、ここには集落があったらしい


▲道標では舗装道路から外れて段丘上に登っていく道が与川道だ


▲段差をのぼると本棟造りの古民家がある。無住かもしれない。


▲針葉樹林を抜ける、人ひとりだけが通れるような狭い幅の杣道


▲細道は尾根丘を横切って舗装道路に合流する。合流点の階段道。


▲舗装道路は深い針葉樹林のなかを北東に進む
  この道の先で舗装道路は東に迂回して下山沢を越えることになるが、与川道はほぼ直進して谷底に降りて沢を渡り、樹林帯を抜けて坂をのぼり尾根を越えて小野川平の集落に入る道だったと推定される。
  下山沢は高曽根山の尾根と南木曽岳の尾根の間の谷間を流れている沢だ。


▲下山沢のの渓谷に降りていく小径が与川道だった


▲この杉叢林の向こうは下山沢の谷間だ


▲今はこの雄報道の端を渡って沢を越えることになる


▲小野川平の集落の様子:今でも多くの住戸が残っている


▲高道の下から来る細道が与川道だという


▲高曽根山の東尾根を回り込んで小野川平の集落に出てきた


▲街道は、小野川を渡る橋にいたる。
  与川の増水氾濫を考えると、往古の脇街道も、与川を渡らずに、目前の丘を左(北)にのぼっていく経路があったと考えられる。


▲与川を越える橋。左に往くと、与川沿いに木曾川に出て与川発電所にいたる。向かいの丘の上には古典庵跡がある 。
  私たちの探索旅は、右(北東)に道を取ることになる。



▲与川の本流。渓谷段丘上(中央)の道は坂本平からの舗装道路


▲須合平の集落と与川を渡る橋。ここからは左岸の道。


▲棚田の畔縁に道標があって、この草道が砥川道遺構だ


▲沢渓谷の縁を往く街道遺構


▲竹林





■正善沢を越えて胡桃田へ■

  結い庵を出てから、舗装道路を通って400メートルほどの道のりで。与川の支流の正善沢の渓谷を渡ることになります。この舗装道路は往古の与川道の遺構とは少し離れているように見受けられます。
  この辺りの地形から推測すると、往古の街道は、 結い庵を出てから北東に100メートルほど進んだところで舗装道路を北側に逸れて、正善沢の渓谷に降りて沢を越えていたようです。沢を越えてからは、現在の送電鉄塔がある場所の東側を通って向きを東に転じて灌木林を抜けて、谷斜面の杉林のなかを等高線と平行に(ほぼ水平に)歩いて現在のヘアピンカーヴの頂点(西に凸の形)で舗装道路に合流するという道筋になりそうです。
  昔の人びとの知恵の方が現在の道路建設テクノロジーよりもはるかにすぐれていたようで、旧与川道の方が直線的で、しかも高低差が小さく、かえって道のりの無駄も少ない道筋になっているといえます。


現在の舗装道路。与川道跡は見つからない。

  私たちは今、アスファルトやセメントなど大量の土木建築用材を用いて遠回りの道路を建設して道のりを長くし、しかも大量の化石燃料を消費して自動車で旅をすることになります。なんだかなー、という気分になってきました。
  ところで、正善沢の畔の道路脇(橋の北側)には説明板が立っています。それによると、正善沢は江戸時代に三留野村と与川村との境界線をなしていました。当時、山林は耕地の肥料としてすき込む芝草を刈り集めるために不可欠で、入山権(入会権)をめぐって村どうしが境界線を争ったそうです。ともあれ、ここからは、旧街道は与川の谷間を進むことになります。


谷間の急傾斜面を開削して街道をつくった

  緩やかな上り坂の舗装道路を進んで正善沢の谷間を越えると、ふたたび沢が刻んだ谷間に入り道は大きく曲がり、両側に低い欄干が付いた小さな橋を渡ります。与川と落ち合う前に正善沢と合流する沢ですが、名称はわかりません。
  橋の北西側、舗装道路が通る段丘の下に1軒の住宅があります。この辺りには橋の手前の家とこの家と、道路を挟んで斜向かい高台上の1軒、そして沢の東側の丘に2軒が離れ離れに建っています。その家々も住民がいるかは不明です。かつては開拓地の集落をなしてのかもしれません。
  この辺りは胡桃田と呼ばれていた地区です。往古には、ヤマグルミが植えられた畔で仕切られた棚田などが開かれたのかもしれません。
  ところで、この舗装道路は沢の渓谷を回り込んで自動車が通行するために、昭和中期に建設されたのではないでしょうか。すると、往古の与川道は、東向きに沢を迂回するよりも手前(西側)で谷間に降りて沢を渡っていたと考えられます。
  左上の(橋を写した)写真の左端に赤い屋根の住宅がありますが、この家の西側に沢渓からのぼってくる細道があります。おそらく、これが与川道の遺構ではないかと見られます。それを裏づけるのは、赤い屋根の家の斜向かいに、道路脇の尾根丘にのぼっていく細道があって、道標によるとこれが与川道である表示してあることです。往古には、沢から北向きにのぼってきた細道がそのまま舗装道路を斜めに突っ切って、丘をのぼる細道にまっすぐに連絡していたのはほぼ確実だからです。


段丘の上から振り返り、のぼり細道を見おろす

  この細道は、雑木林のなかをほぼ北向きに抜けて針葉樹林のなかに入っていきます。そのまま進むと、樹林を突っ切ってふたたび舗装道路に合流します。この辺の土壌は水はけが悪いので、この古道を歩くときには、登山靴など水濡れに堪えられる支度をしてきてください。
  旧与川道は、細い尾根丘を斜めに横切って越え、北側の谷間に出ていく経路だったのです。自動車道路よりもはるかに近道です。とはいえ、道幅が細くて起伏が多い杣道なので、早くは歩けませんから、それほど時間を節約できるわけではありません。でも、爽快な森林浴楽しめます。急坂の起伏か所には木材で補強した階段状に路面が設えてあるので、登山ほどの危険性はありません。


木材で段差支える階段になっている


尾根の間の谷を切通して造った舗装道路

  舗装道路に出てみると、この舗装道路は2つの向かい合った尾根の間の谷間の片側を切通して開削建設したものであることがわかりました。稜線から幾筋もの沢や湧き水が流れ落ちてくるので、擁壁の土砂崩れを防ぐためにコンクリート石垣を施して補強してあります。
  山間を安全にクルマが通行できるようにするためには、じつに手間と費用がかかります。それに比べると、往古の街道は環境負荷が圧倒的に小さいうえに維持や補修にかかる手間が少なくて済んだのです。昔の人の歩行による旅と自動車という機械力を駆使する旅との違いを感じます。

■下山沢の谷を抜けて小野川平へ■

  さて、この先舗装道路は下山沢の谷間に向かいますが、道筋は沢の谷間を東に大きく迂回して橋を渡ってから北西に転じ、与川の本流にいたります。ところが、往古にはこの舗装道路とほぼ同じ道筋のほかに、下山沢の南から迂回しないで、そのまま北東方向に進んで谷に降りて沢を渡り、谷底から北西方向に進路を取って集落に入る経路があったものと見られます。
  ところが、遊歩道の橋から沢の流れを眺めてみると、前日に降雨があったこともありますが、非常に大きな流水量です。流速が速く、徒歩での渡渉はかなり危険です。したがって、往古にはこの辺りに丸木橋を架してあったものと想像できます。


下山沢の流水量はかなり大きい


段丘の上から振り返り、のぼり細道を見おろす

  下山沢の流水量が大きいことから、ここで沢を渡らずに、舗装道路とほぼ同じ経路で下山沢の谷間を回り込んで超える脇道があったとしても当然です。もっと上流で沢幅の狭いところに橋を架けて渡り、高曽根山(標高1119m)の尾根の東端の鞍部を横切って与川の谷間に進む経路があったようです。私が地形から探ってみたところ、旧道は北東方向に進んで尾根山腹をのぼり、尾根の鞍部で方向を北に転じて谷を降り、小野川平の集落に入ることができます。


畑の畦道が与川道の跡かもしれない

  小野川平はかなり広い谷間で平坦な地形です。それゆえ、今でも集落には多くの住居が残っています。下山沢を越えてきた道路はこの集落を通ります。
  ところが、高道となっている舗装道路の脇に道標があって、谷間の水田・畑作地地帯からこの高道にのぼってくる細い草道が与川道だと説明してあります。沢を迂回しないでまっすぐに谷間をのぼってきたのでしょう。


尾根の鞍部から小野川平に降りてきた旧道

  上の写真の中央は、高曽根山の尾根の鞍部を越えて小野川平に出てきた街道跡です。しかし現在は、土砂崩れがあって通行止めになっていたので、道筋をたどることができませんでした。
  この辺りの地質は破砕された花崗岩質の砂礫を含む堆積岩なので、豪雨による河川の増水で容易に土砂崩れが起きるので、2通りの道筋を建設し、与川やその支流(下山沢)の増水氾濫でどちらかが通行不能になることに備えたためかもしれません。

■坂本平から須合平をめざす■

  さて、私は小野川平の集落を抜けて与川に架かる橋を渡りました。与川右岸の丘は坂本平と呼ばれる地区です。ここからは、与川の本流の谷間を遡る旅となります。
  往古の与川道は与川の左岸を通っていたと見られますが、安全な道筋が見つからないので、今回は川を右岸に渡って坂本平から須合平をめざすことにします。いつの日にか、左岸の旧道跡を探索したいものです。
  とはいえ、坂本平の丘の上には古典庵跡や白山神社もあるので、与川右岸の道が旧街道の本道かもしれません。

  坂本平から須合平の間に与川を渡る橋は2本しか見つかりませんそのひとつ目の橋を左岸に渡ることにしました。
  橋の直下で支流の沢が与川に合流しています。この沢の上の棚田の畔縁に道標が立てられています。どうやら沢渓の縁に沿って与川道は、尾根の鞍部を抜けて須合平でも上の方の集落に連絡しているようです。
  沢筋を遡っていくと、対岸に竹林があって、沢を渡る木橋がかかっています。対岸に渡ると、竹林のなかに木道が設えられてあります。どうやら起伏が激しい湿地帯となっているようです。辿っていくと、竹林が針葉樹林や雑木林に変わりました。ここでいたん木道が途切れ、起伏がはがしくなるとふたたび木道となり、周囲は竹林で覆われています。


旧道は、この渓谷沿いの尾根鞍部を往くらしい


旧道の下の谷底を流れる沢

  ところで、ここまで与川道の跡を辿ってきてみると、どうやら小野川平から須合平までは与川の左岸を往く道が往古の街道だったのではないかと判断できます。
  というのは、江戸時代にはさほど発達した土木建築技術がありませんでしたから、河床渓幅が広い与川に橋を架けるのは相当に困難だったはずです。渇水期など流水量が少ないときには、仮架けの橋をつけて右岸と左岸を行き来することができたものの、常時は無理だったでしょう。
  そうすると、須合平から小野川平まで与川左岸を往来する道の方がより頻繁かつ安全に通行できたはずだと見られるのです。
  やはり、いつか与川左岸の街道遺構を探索してみたいと思います。ただし、近年、気候変動のために豪雨が多く、土砂災害で通行止めが頻繁になり、通行禁止になる道が多いので、いつのことになるのか不明です。
  御岳と木曾駒ケ岳という2列の山脈・山塊の谷間にある木曾地域は、雲が山塊にぶつかるため年間を通じて降水量が多く、それゆえ与川も木曾川本流と同じくらいに増水氾濫が発生していたのかもしれません。

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