大桑村野尻地区の国道19号の阿寺渓谷入り口交差点から阿寺橋に向かって歩くと、JR中央西線の踏切に出ます。 今回の旅はここから始まり、下在郷しもざいごうの集落をめぐって一里塚跡をめざします。下在郷から野尻宿にいたる地区は、木曾川が城山の北麓に削り出した谷間の盆地に北から阿寺川、南から二反田川が注ぎ込んで形成した扇状地に位置しています。


◆河岸丘陵に開かれた豊かな農村◆



▲下在郷の旧中山道から木曾川と阿寺橋を眺望する



▲右に分岐する小径が旧中山道で、広い自動車道は阿寺橋に向かう


▲さあ、今日の旅が始まる


▲旧街道は家々の玄関先を通っていく


▲扇状地なので街道脇の湧き水や沢が多く、水場が池となっている


▲荒廃した農家の納屋跡や畜舎跡の脇を進む


▲農家の大きな主屋と土蔵・前庭が街道で分断されている


▲旧中山道は広壮な古民家の軒下・軒先を取っていく


▲三叉路を北に、小さな坂をのぼって進むのが旧街道


▲街道の東脇にある妻神社: 巨石の上に石神が祀ってある


▲自然石に社号が刻み込まれている


▲妻神社の北隣には石仏群。7基のうち5基が馬頭観音。

 江戸時代後期から運搬や農耕で使役される馬が斃死したときに埋葬する場所が集落ごとにあった。馬捨て場とか馬塚と呼ばれる場所だ。そういう場所には、死んだ馬など畜獣を慰霊するために石塔や馬頭観音が祀られることになったのだという。
 一方、村境や村人が往来し集まる場所にも石仏や道祖神などが建てられたという。また、街道沿いには1丁ごとの道程標として馬頭観音などの石仏が置かれるようになったと見られている。

 馬は人びとに身近な存在だった。おそらく野尻の街では年ごとに馬市が開かれて、近郷近在から飼育された馬が持ち寄られて競りによる売買がおこなわれていただろう。


▲小径は蛇抜け沢に近づいていくと、しだいに上り坂になる。


▲蛇抜け沢の谷を渡る街道。上は谷終えのJR中央西線の橋梁


▲蛇抜け沢沿いに丘陵を北東にのぼる坂道(旧中山道)


▲旧街道沿いに数軒の古民家からなる集落がある


▲この古民家の前はかつて崖下に蛇抜け沢が流れる渓谷だった。土石流の被害を受けにくい岩壁の上なので、家が建ち、その前で中山道は沢を越えた。


▲蛇抜け沢を越えると、街道は斜面を降り標高を下げる


▲この坂をのぼると下在郷の一里塚跡にいたる


▲一里塚跡の碑:
 この石標が、ここに一里塚があったことを示している。往時、この地点の中山道の道幅はせいぜい1間で、現在の舗装道路の半分ほどだった。その道の両脇に直径5メートルで高さが2メートル余りの塚山があって、そこに松や榎が植えられていた。

■下在郷という地名■

  中山道三留野宿から北に向かうと、木曾川の両岸に峻険な山並みが迫る深い谷の底を這うような旅が続きます。ところが、野尻宿に近づくと、ようやく木曾川両岸に開けた谷間の田園風景を目にすることになります。 もちろん険しい山並みと山林に取り囲まれているものの、河畔に田畑と集落群が連なり、人里の営みを感じることができます。集落群の連なりは、下在郷から野尻宿を経て殿、長野、須原宿まで約8キロメートルの道のりにおよんでいます。
  ここでは、古代から農村開拓が始まり中世には領主の城館を中心として豊かな集落群が形成されたであろうと想像できるのです。
  この辺りは下在郷しもざいごうと呼ばれています。在郷とは都市的な集落の周辺の鄙びた農村という意味です。この辺りで都市的な集落とは、野尻宿の街並みということになります。中世以来、人びとが集住する集落が形成され、江戸時代の宿場街の土台となったのです。
  在郷とは、野尻宿に木材などの森林資源や食糧、そして人材を供給してその社会的・経済活動を支え続けた郷村を意味するのです。

■日本の原風景を求めて■


農具洗いや畜獣飲み水用の池の跡だろうか

  ところが、明治以降に日本という国民国家が形成され、欧米型の工業経済を育成して世界市場での競争をめざす仕組みができ上ると、木曾地方の町や村の「まとまり」や自立性はどんどん失われ、近代経済の物差しからすると「取り残され」てしまいました。
  しかし今、欧米型の経済成長の条件を貪りつくした結果、経済は停滞と低迷の時代にはまり込んでしましました。私たちは、これまでの経済成長一辺倒の価値観の見直しを迫られ、日本の原風景であった農村=郷村の風景への憧憬を抱くようになっています。
  とはいえ、農村の原風景は急速に失われつつあります。
  将来に残すべき社会的営みと生活空間とは何か・・・そんな問いを心に抱きながら、下在郷から野尻の風景を探索することにします。


この辺りが集落の中心部か、住居が集まっている

■下在郷の集落を歩く■

  下在郷は、野尻城山の北麓で木曾川に下る斜面にあって、河岸段丘が幾重にも連なっています。一番上野段丘を国道19号が通り、その下の段丘を旧中山道が鉄道と隣り合いながら通っています。そこから木曾川の畔までは、さらに何段かの段丘斜面が続いています。

  野尻宿に向かうためには、そんな旧街道を北東向きに進むことになります。街道沿いのところどころに数戸の家屋が集まっています。
  私は街道沿いにひときわ広壮な古民家を見つけました。本棟手梁造りで棟側の長さが10間近くもあり、小径を挟んで土蔵があります。往時、名主・庄屋を務めていたのでしょうか。街道はその古民家の軒を通るような形です。

妻神社と石仏群
  そんな古民家の北側で道は三叉路となり、街道は北に向かって小さな坂をのぼっていきます。坂の上の東脇には妻神社があり、北隣に石仏群があります。7基の石仏のうち5基は馬頭観音で、残りは念仏塔と三界万霊塔です。これらの石神や石仏は大きな石の上に置かれています。
  妻神社は悪疫退散を願って祀った石祠で、村落の中心部に設けられるものだそうです。祠の前には1対の石灯籠が配置されています。
  この妻神社の読み方は――木曾路では――「さいのかみしゃ」となるようです。「つまじんじゃ」でも間違いではないようですが。「賽の神」と書くこともあります。 「さいのかみ」は、木曾南部に特有の社で、ほかの地方では道祖神として祀られているものです。本来は、村と村の境界に設けて、道祖神のように疫病や災厄が村に入り込まないように願う神だと言われています。 ここの妻神社は、十二兼との境にあった「さいのかみ」を移設したもののようです。
  また、妻籠という地名に見られるように、妻(ツマ/サイ)とは谷間の奥、あるいは「集落の端」つまり村の出入り口・境界を意味するようです。こうした文脈からして、おそらく「妻」は賽という読みの当て字なのでしょう。江戸時代には、同じ音や読みをさまざまな字で表記したのです。

蛇抜け沢を越える
  旧中山道は、下在郷の南にそびえる城山から西に張り出した尾根斜面をのぼりながら野尻宿に近づいていきます。ところが、この尾根の西向きの窪みを抉って流れ下る急勾配の小さな沢があって、蛇抜け沢と呼ばれています。 呼び名の通り、過去には「蛇抜け」(土石流)を繰り返してきました。旧街道はこの沢を越えて北上します。


蛇抜け沢の湾曲部の様子

蛇抜け沢の下流部の施工箇所

沢底・岸壁の防護工事の完成箇所

  木曾谷には村ごとに「根抜け沢」と呼ばれる急勾配の小さな沢があります。上掲の写真でわかるように、普段は沢に水がほとんど流れていません。ところが大雨が降ると、急勾配の沢は蛇行する流路から溢れて土石流を引き起こします。 そこで、今では防災のために、屈曲を小さくした沢の底と側壁を頑丈なコンクリートで固め、十分すぎるほどに大きな断面積の流路を建設して、できるだけ直線的に最短の流路で降水を木曾川に誘導するのです(上掲の写真を参照)。
  旧中山道は蛇抜け沢――が刻み込んだ渓谷――を渡るために、尾根斜面をのぼって、谷の幅が狭まり木橋を架けられるところまで回り道(迂回)をすることになります。これが、前近代の道のでき方です。徒歩で旅をする時代の道は、河川や沢を越えるためには、上流部に回り込むしかないのです。
  一方、中山道とほぼ並走する鉄道は、近代文明の産物なので、山並みから木曾川に流れ込む沢や河川を鉄とコンクリートでできた橋梁(架橋)で直線的に越えていきます。

  さて、下在郷の中山道が蛇抜け沢を渡る場所は、蛇抜け(土石流)の被害を受けにくい地盤が安定した渓谷の縁なので、そこには江戸時代から住居が建てられたようです。現在でも、本棟造りで出梁妻入の伝統的な環畜構造の古民家が残されています。
  今では、この辺りにはコンクリートを用いた土木技術で護岸工事と橋建設工事を施してあるので、往時の沢とか渓谷の地形はすっかりなくなっています。
  木曾谷を往く中山道は、木曾川に流れ落ちる無数の沢や河川を渡って往く小径でした。昭和期の道路整備と建設は、危険を取り除き安全な通行を可能にしてくれましたが、反面、そういう苦難に満ちた人びとの歴史の痕跡を消し去ってしまいました。その分、安全や便利さと引き換えに、私たちは歴史(人びとの過去の経験)から学ぶ機会を失ってもいるのです。

一里塚跡にいたる
  さて、蛇抜け沢を越えた中山道は、今度は緩やかな下り坂となり、ひとつ下の段丘に降りていきます。しかし数百メートル歩くと、また次の沢の畔にさしかかります。したがって、沢の渓谷を越えるためにまた上り坂になります。
  この坂をのぼり、沢を渡ったところに下在郷の一里塚跡があります。しかし今そこにあるのは、道脇の一里塚跡の碑だけで、塚山の痕跡はどこにもありません。ここは野尻宿の街の近郊なので、明治以降で道路整備・建設が進んだので、江戸時代の中山道の遺構はすっかり除去されてしまったのでしょう。
  ということは、野尻宿と下在郷は1960年代(昭和30年代)までは経済的にそこそこ繁栄していたということです。しかし、高度経済瀬長が本格化するとともに、しだいに「世の中の動き」から取り残されてしまったのです。その分、往時の中山道の名残をとどめているのです。


一里塚跡の西傍らの沢の渓谷


一里塚跡から野尻宿に向かう道路

前の記事に戻る || 次の記事に進む |