須佐男社への参道の途中で南に分岐する細道があります。それを辿ると、覚明社という奇妙な神社に行き着きます。 急斜面の山腹の境内神域には、いたるところに数えきれないほどの石仏や石神、石塔や祠が置かれています。古くから続く山岳修験の場という印象です。


◆御岳信仰の山岳修験行者を祀る社◆



境内神域の急峻な岩場にはたくさんの祠や石塔、石神、石仏などが祀られている。




▲ここまでは須佐王社と共通の参道


▲路傍に手水場がある。ここからが覚明社の境内だったらしい。


▲斜面の先に覚明社の拝殿(奥に本殿)の様子


▲横長の拝殿の中央奥に本殿が祀られている。



▲蓋殿の下には不動明王の石像がある


▲八人石沢と堰堤。向こう岸に大岩があった

■古い山岳修験の跡が残る境内■

  国道19号脇のデイリーヤマザキの西隣に山林に入っていく石畳の小径があります。これは須佐男社と覚明社への参道に導く小径です。途中まで2つの神社の参道は同じ道となっています。
  大鳥居をくぐり針葉樹の並木が切れるところまで行くと、参道の右脇に石製の手水場があります。これが覚明社へと向かう細い参道の分岐点です。細道をのぼると舗装道路に出ますが、これを横切った先が覚明社の境内です。
  境内の奥はところどころ岩が突起した急斜面となっています。峻険な岩場の山腹は、まさにここが山岳修験の場だという印象を与えます。明治以降に定式化されてきた「神社なるもの」とは、相当に風趣を異にしています。
  
  ここに祀られた覚明という人物は、御岳で山岳修験に努める行者(山伏)でした。木曾の山岳を巡回修行しているときに特別に野尻の宿に安産祈願の守礼を授けて御岳に赴いたそうです。その安産守礼は霊験あらたかで、この地方の多くの人びとに感謝され、覚明は深く崇敬されたのだとか。
  覚明は開けた精神の持ち主で、御岳信仰と修行体験を民衆にも広めました。
  やがて、彼の徳と安産守礼を祀って、一般民衆も参拝できるように山中に堂舎を建てて、広く御岳講を組織して詣でるようにしたそうです。


本殿尾背後からの景観

■新たな御嶽修験の道を開創■

  覚明という人物の来歴の多くは謎です。18世紀前半に尾張の国で生まれ育ち、長じて真言密教寺院の僧となったという言い伝えもあるようです。やがて、弘法大師の足跡を探訪するために、四国八十八か所霊場の巡礼修行を繰り返すうちに悟りを開いたのだとか。

  その悟りによって御岳での修験を志したようですが、当時、御岳での山岳修験は厳格に参加資格者を限定したようで、覚明のような門外からの参入に堅く門戸を閉ざしていたようです。覚明は各地で厳しい巡回修行を積んだものの、おそらく宗旨が違うと理由で何度も入山を拒まれたようです。
  覚明は一般民衆にも山岳信仰と修行への参加を求め、帰依者を広く受け入れるような信仰体系に改革したのです。これは「現生利益」「衆生済度」という密教の本来の姿を回復しようとしたのかもしれません。
  明治維新での神仏分離や廃仏毀釈によって、御岳信仰は神仏習合の伝統からの離脱を余儀なくされ、神社=神道系列に偏移してしまいました。明治国家の宗教統制の枠組みにとらわれてしまったのかもしれません。ところが、木曾山中の覚明社は、本来のスタイルを保持しようとしてきたと見られます。
  この境内には、不動明王の石塔が建てられ大日如来や阿弥陀如来との結びつきを暗示する石碑も残されています。日本古来の山岳修験が仏教思想によって体系化された頃のイメイジを残しているように見えます。

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