■17世紀までは山頂にあった■
須佐男神社の境内拝殿の前には「遷座三百年奉祝」の石碑が立っています。伝説の通り、おそらく1660年頃までは、この神社は現在地の背後に迫る尾根の上の峰にあったものと考えられます。
その時代を考えると、江戸時代初期で野尻宿が宿駅機能を備えた街としてようやくでき上った頃で、荒田地区の開拓と街並みの西への拡張が始まる頃合いなので、そういう動きと須佐男神社の遷座は関連しているのかもしれません。
医師の門柱の背後には一対の石灯籠
大鳥居の背後の杉並とサワラの並木
この神社は、社号の通り、スサノオを祀っています。ほかの地方では牛頭天王社あるいは八坂社(弥栄社)と呼ばれることもあります。江戸時代までは、京都にある現在の八坂社は感神院または祇園社と呼ばれていて、神道と仏教が融合していました。つまり神仏習合の伝統が受け継がれていたのです。
野尻の須佐男社にまつわる伝説では、昔、京洛の八坂社を追放されることになったチョウサイ坊という僧――神仏習合の時代だったので、神社と寺院は融合していたので、神社に勤める仏僧もいた――は、ひそかにご神体のひとつを持ち出し、木曾までやって来ました。チョウサイ坊が野尻の上在まで来て空腹と疲労で困憊していてとき、その地の有力者、西尾万納に助けられました。
ご神体を盗み出したことを悔やんでいたチョウサイ坊は、万納に深く感謝して、万納が保有していた山林に堂舎を建立しご神体をて祀ることを願い出ました。万納は大喜びして社殿を建てて、おそらく正式に勧請してスサノオ神を篤く祀ったそうです。その当時の神社は、現在地よりも上の尾根峰にあったそうです。
京都の八坂社といえば格式が高い最有力の神社ですから、通常であれば、追い出そうとする僧にご神体を持ち去れるようなヘマはしないはずです。したがって、伝説が史実だとすると、京都が戦乱に見舞われ、八坂社の組織や権威が衰弱していたときの事件でしょうか。鎌倉末か室町後期か、その辺りの時代かもしれません。野尻のこの社が須佐男神社という社号になったのは明治以降のことで、それ以前は神仏習合で牛頭天王社と呼ばれていたと見られます。
約300年前におこなわれた遷座の記念碑
灰での向かいの手水舎
この街の古老によると、この神社の境内にはかつては寺の堂宇らしい建物があったそうです。幕末まで牛頭天王社を管理していた別当寺の堂宇があったようです。明治維新で寺格は廃されたようです。それが妙覚寺に属する禅庵のような建物なのか、別のものなのかは、史料が見つからないので不明です。
野尻の伝説にある――城山尾根の城館跡に設けられたという――龍泉庵が、須佐男社に付随した禅庵かもしれません。
本殿から拝殿を振り返ると
境内からこの参道を街に帰っていくことになる
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