上町の高札場跡から倉之坂を下っていくと、JR中央線の手前に数件の家亜が並んでいます。地籍としてはここまでは上町です。 家並み間に路地があって、尾根裾の森に導いてくれます。そこには鹿島社の大鳥居があって、


◆広大な尾根台地の端に立つ尚武の神◆



尾根の南側の崖のような斜面をのぼる石段参道。




▲鹿嶋社への参道は線路脇の集落の小路を入ったところから


▲崖縁の参道。尾根裾で沢の深い谷が西向きから南向きに変わる。


▲ここで直角に曲がって鳥居をくぐり崖斜面をのぼる


▲山城跡のような相貌の登山道


▲尾根の深い山林のなかをのぼっていく


▲石段の先に拝殿が見えてきた

  鹿島社が位置している尾根を歩いてみると、鎌倉時代から室町時代にかけてここに砦があったのではないかという印象を抱きました。倉之坂にあった城館を掩護するための砦が。やがて時代を下ると、砦は廃され、曲輪内にあった鹿嶋社が尾根峰上から尾根の先端に移されたのではないでしょうか。

■由緒・来歴は不明■

  野尻のほかの神社と同じように、鹿嶋社の由緒・来歴は不明です。しかも、伝説すら残されてはいないようです。

  鹿嶋社の祭神はタケミカヅチ(建御雷/武甕槌)です。雷を操る神であり、武を司る神でもあります。国づくり神話では、出雲のオオクニヌシに対して大和王権に国(統治権)譲りを迫る談判をしに赴いた神です。
  そして、国譲りの和議に異議を示したオオクニヌシの次男、タケミナカタと力比べをしてあっさり勝ったという武勇の持ち主です。
  というわけで、武辺の守り神ですから、武将たちが篤く尊崇した神です。ということになると、野尻宿の東端のこの尾根には室町時代から戦国時代にかけて城砦が築かれていて、その祭神のひとつとして祀られていたのかもしれません。
  そして、戦国末期から江戸時代初期にかけて、中山道野尻宿の東端の鎮守として、尾根峰から集落近くの尾根の先端に移されたものと見られます。
  ただし、史料・記録はありません。


崖下の大鳥居を振り返る

■源氏勢力の台頭以来の神社か■

  平安末期から木曾では源義仲を筆頭とする源氏勢力(武将領主群)が台頭してきたのですが、そういう系譜に結びつく神社や寺院は今は残されていません。後白河上皇によって朝敵の汚名をかぶせられ、頼朝によって滅ぼされたとはいえ、あれだけの威勢を誇ったにもかかわらず。


拝殿の正面の様子


拝殿の奥に本殿が置かれている

  してみれば、後の権力者によって糊塗されてしまった歴史のなかに野尻の寺社の由緒や来歴発掘の糸口があるような気がします。


拝殿前から尾根をのぼていく林道

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