昭和30年頃の須原宿の姿
上の写真は、昭和30年頃(1950年代)の須原宿の姿を――中町の曲がり角から西方を――写した写真です。農村部ではまだ自動車が普及していなかった時代です。
旧街道の幅は幕末から保たれてきたもので、宿場用水は旧街道の中ほどを流れていたことがわかります。現在の県道265号は、モータリゼイションに合わせて両側にそれぞれ1.5〜2メートルほど、合わせて4メートルほど拡幅し、宿場用水の遺構を南側に移してあります。
街道の奥を見ると、不鮮明ながら、定勝寺の境内の尾根は今よりも北側に張り出していて、道路も筋違いになっていて、寺下小路の名残りが見られます。その後、旧街道が拡幅されたことを考えると、尾根は少なくとも4メートルくらい南側に削られたことになります。
それでも、高度経済成長は始まり、電柱が規則的に立てられていて、街の電化が開始されたことを物語ってします。木曾川の水力発電視察が建設され、木曾地方はその電力の恩恵を受けていたということです。
ところで、上掲の写真が描く風景は、1866年(慶応2年)と1887年(明治20年)という2度の火災を受けて再建された街並みです。幕末が近づくと、中山道と各宿場はは1830〜40年代になると財政危機――住民の負担増――によって衰退していきました。
『大桑村誌』上巻の付録「須原宿街並み図」――18世紀半ば〜後半に記されたか――では宿場街に町家数が170軒前後、旅籠が三十数軒もあったのですが、1843年(天保14年)の須原宿大概帳では旅籠数が24軒、家屋104軒と大幅に減少しています。
住戸数も旅籠数も3〜4割も減っています。宿駅としての負担に耐えられなくなって廃業し、宿場街から立ち退いた住民が続出していたようです。幕府が規制する貨客の継ぎ立てや宿泊の料金が、長年にわたって実際の経済・物流活動に合わなくなっていたため、宿場の経営環境が大きく悪化したのです。