■集落の起源は室町後期■
大桑村の木曾川河畔――殿村、長野村、野尻村など――には、鎌倉時代には小領主が開拓を指導する集落が生まれたそうです。木曾川の流路が大きく曲がる須原では増水氾濫による水害が頻繁だったので、本格的な農耕地と村落の開拓が見られるようになったのは、室町中期頃だと見られます。
言い伝えによると、1530~1560年(天文・弘治年間)に、現在の宿場よりも下の河岸段丘上――古町と呼ばれる――に須原の集落が形成されていたようです。集落は戦国時代末期にかけて成長発展し、1601年に徳川幕府の道中奉行の命によって須原宿が発足しました。
東南東に向かう旧中山道
両側に樹林が迫っていて、懐旧の想いが湧く小径
■1715年の水害で壊滅し再建された■
ところが、1715年、豪雨の後で木曾川が氾濫し、古町にあった旧い須原宿の街並みを押し流してしまったそうです。その後、もうひとつ上の段丘――富岡と呼ばれていた高台――に新たに宿場街を建設することで再建したということです。
現在の須原宿の街並みは、木曾川の河床から――水位・水量にもよりますが――標高差にして65メートル高く、水平距離にして350メートル離れています。非常に傾斜のきつい河岸斜面となっていることになります。
■旧中山道を通って須原宿に入る■
ところが、橋場から長坂を下って宿場に入るまでの中山道の道筋は、1715年の氾濫の前とさほど変わっていないように見えます。宿場街が古町にあったときの経路と変わっていなように見えます。
今回の旅では、定勝寺の境内北端の石垣の下を通る県道265号ではなく、江戸時代の中山道を通って矢洞沢まで進み、沢に沿って南に曲がって、桝形跡を抜けて須原宿に入ることにします。
旧中山道の道幅もこのくらいだったか
定勝寺の東脇から矢洞沢の下流、桝形跡を眺める
旧中山道は、長坂を降り切って県道の最も低いところで左折して東南東の方向に転じます。
旧街道の両側には、かつてはもう少し賑やかに家並みがあったようですが、過疎化が進んで今は民家はまばらです。家屋の跡地は草原になっていて、そこに現代風の造りの住居が点在しています。
旧街道は200メートルほど直進していったんは国道19号に近づき、そこで東南東に曲がり、渓流矢洞沢に出会うとそこでほぼ真南に方向を変えます。この曲がり角は二股になっていて、左に進むと旧古町にいたります。往古、この分岐点に桝形があったと見られます。
私たちは沢に沿って南に進み、定勝寺の境内北端の石垣の下を往く県道265号に合流します。ここが宿駅の左端で、そこで直角に左折して須原宿に入っていくことになります。この曲がり角も桝形の跡だと見られます。こちらは急傾斜の段差(高低差)を利用した桝形です。
ところで定勝寺の石垣の下(北側)を通っている県道は、江戸時代には寺小路と呼ばれる、ずい分細い道だったようです。この小路は須原宿の街通りである中山道に筋違いで接続していました。現在、石垣の下でバスの停車スペースとなってる路側帯は、明治鉱から昭和期にかけて拡幅された部分だと見られます。
県道左脇の土の地面が寺小路の跡だと見られる
上の写真で、舗装された県道部分には、寺下の町家家並みがあったそうです。舗装道路の左脇のむき出しの地面の辺りに、中山道の脇道として寺小路があったのです。
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