須原宿では、木曾路のほかの宿駅と比べて住戸数に対する旅籠の割合――2割強もあった――がことのほか高かったようです。 おそらく参覲旅をする藩の多くが須原宿に投宿・宿泊したためだと見られます。藩主に随行する従者家臣団の数も多かったので、宿場街としてはそれだけ旅籠の収容力を大きくする必要があったのです。
  したがって庶民だけでなく、高位の武士つまり上級家臣を宿泊客として受け入れる用意があったということです。一般庶民向けの旅籠と武士向けの旅籠または部屋が区分されて用意してあったとということです。


◆須原宿の旅籠 屋内のつくり(間取り)◆



『大桑村誌』上巻付録「須原宿街並み図」にもとづいて想像復元した、現仲町にあった「旅籠 武三郎」屋内の部屋割り図



同上の手法で想像復元した、現仲町にあった「旅籠 山本市左衛門」屋内の部屋割り図




▲街道に面しての間取りが3軒の店舗町家




▲街道に面した間口が7間の大店店舗町家(手前側)




手前は間口4間の中級の旅籠。宿泊客の収容数が大きいだけでなく、やや上級の客間もあったようだ。
もちろん、宿泊代金も高めだったから、富裕な商人や富農などを客筋として想定していたようだ。

とはいえ、下級藩士たちは一般庶民向けの旅籠に分宿し、畳部屋に何人も相部屋となって泊まることになった。
武家諸法度(の細則)では、藩主は宿場を野戦陣営または城砦として警備警戒しなければならなかった。そのため、一般旅行者たちは、物々しい警備体制の宿場には入らず、中山道の脇道(宿場の表通りの裏手の小径)を通ることになっていた。

■庶民の旅籠と上級武士の旅籠■

  上に掲載した須原宿の旅籠の屋内間取り図は、『大桑村誌』上巻付録「須原宿街並み図」にもとづいて想像復元したものです。「須原宿街並み図」には、旅籠屋の間取りの概略が描かれていたものに若干の補完をしてあります。

  「須原宿街並み図」では須原宿には、中山道両脇に――本陣・脇本陣・旅籠、そのほか店舗など――およそ170軒の家屋敷地(町割区画)が描かれています。つまり、およそ170軒ほどの店舗が街道両側に構えられていたわけです。そのうち、本陣と脇本陣を除いて30軒以上が旅籠なのです。
  宿泊施設の割合が非常に高い宿場町なのです。

  さて、参覲旅をする藩主や家老などの高位の武士は、原則として本陣や脇本陣に宿泊しました。しかし、大名には多数の家臣団が随行していました。彼らもまた本陣・脇本陣の近くに宿を取ることになりますが、尾張徳川家などの大規模な藩になると半分ほどに簡略化しても1500人以上の家臣たちが追従していました。
  小さな藩でも大名の従者が100人ほどの数になるのは普通でした。宿場街の旅籠は満杯になります。そこで、藩主が宿泊する日には、一般庶民の旅人は原則として宿場への出入りを差し止められることになったようです。
  それでも宿が足りない場合は、宿場の有力な寺院の宿坊などに分宿させ、それでも不足の場合には、両隣の宿場の本陣・旅籠や問屋・町年寄宅、さらに近在の助郷役の集落の庄屋・名主などの有力者宅に家臣団を分宿させました。下級藩士は一般庶民が止まる格式の旅籠に泊まることになります。

  とはいえ、中上級の藩士となると、あまり安っぽい宿に泊まるのははばかられたので、裕福な宿場には一般庶民向けの旅籠よりも格式が高い旅籠や部屋を用意しておいたようです。

  さて、上掲の絵図で上の方は、「旅籠屋 武三郎」の家屋の間取りで、間口3間で通常は一般庶民向けの宿屋です。下の方は、町年寄役を務めている山本市左衛門の旅籠で、間口は7間です。格式の違いはまず間口の広さに現れています。
  市左衛門の旅籠は現仲町にあって、脇本陣の1軒おいた隣です。そして、屋内間取りを見ると、奥に床の間を備えた賓客用の「上段の間」があって、その部屋は庭園(坪庭)に面していて、ことのほか眺めが良い格別の部屋です。
  しかも、奥庭には武家方向けの土蔵があって、刀剣や貴重な手荷物を保管するようになっているうえに、広小路側には蔵と厩があります。つまり、騎乗している上級武士を宿泊客として想定していいるのです。

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