■広小路跡からの出発■
旧須原小学校入り口の門柱跡
北側からの広小路跡(草地)の眺め
く
北端からの眺め:下の段丘まで広小路跡が続く
今回の旅の出発点は、須原小学校跡の門柱と須原宿の広小路跡の辺りです。街道の反対側は、阿弥陀堂跡ならびに鹿嶋社への入り口です。ここも広小路だったようです。
「須原宿家並み図」によると、須原宿には3本ほど広小路がありました。広小路とは文字通り「幅がだだっ広い道」のことです。道幅が広いのに小路と呼ぶのは、矛盾していますね。江戸時代の用法としては、小路とは幕府道中奉行が定めた街道ほどの格式はなく、長さが短い街中の道というほどの意味だったようです。
江戸には幅20メートル以上もある「上野広小路」とか「両国広小路」がありました。明暦大火の後、やはり火災の延焼を防ぐ防火帯として設けられました。
広小路跡の斜向かいは阿弥陀堂跡と鹿嶋社里宮
さて、須原宿の広小路についての史料は見つかりませんが、仲町の曲がり角から北に延びる広小路は、現在の痕跡から推定して幅12~16メートルほどもあったと見られます。小路の長さはおよそ75メートルで、旧古町の街通り(初期の中山道)まで続いています。では、なぜ、これほどに広い道が宿場の中ほどに設けられていたのでしょうか。
理由は2つ考えられます。
庭園植栽の奥が清水医院跡
ひとつ目は、宿場街の中央部に防火帯として幅広の小路を設けてそこで延焼を防ぐためという理由です。
もうひとつは、1715年の木曾川大氾濫で江戸初期からの須原宿が破壊された後、現在地に宿場街が再建されたことです。この移転再建によって、街並みが少し長くなっにもかかわらず、住民の家数はさほど増えなかったので、町割りのなかに空き地が生まれたようです。
結局、その空き地は、木曾路のほかの宿での火災による街並み焼失から学んで、延焼防止帯(火除け地)とすることになったと見られます。そうすると、結局、理由はひとつ(延焼防止)ということになりますね。
西尾酒造の店舗は往古、山本九郎衛門だったか
このあたりから先が旧上町の家並み
■中町には町役人が集住していた■
江戸時代の中町(仲町~本町)は須原宿の中心部で、本陣や脇本陣、問屋などの町役人家門が住まわっていました。本陣は木村平左衛門(問屋兼務)、脇本陣は西尾次郎左衛門(問屋兼務)でした。脇本陣の西隣は年寄役の島瀬九郎右衛門、東隣は同じく年寄役の太田徳左衛門、さらに東隣も勘助と、いずれも間口7間の旅籠が軒を連ねているので、壮観だったでしょう。
「須原宿家並み図」によると驚くべきことに、須原宿には旅籠が三十数軒もあって、そのうち間口が6間または7間の大きな旅籠が十数軒もあります。ということは、この宿場の旅客収容能力は頭抜けて大きいということになります――1000人以上ほどか。
尾張藩や備前藩、越前藩、長州藩など大藩、雄藩大名の参覲旅に随行する多数の家臣団の半分以上は収容できることになります。ほかの宿場では、家臣団を近隣の集落の庄屋などの有力者の屋敷に分宿させて、ようやく受け入れ態勢が整いました。須原では宿場だけで、大半を収容できたはずです。
もしかすると、野尻宿の宿泊収容能力が限られていたので、西隣の長野郷と須原宿が参覲旅の随行家臣団の多くを引き受けていたのかもしれません。
ところが、明治以降にこの辺りの屋敷の所有権は大きく変わったようです。「須原宿家並み図」によれば、現在、脇本陣跡の隣は西尾酒造ですが、往古は山本九郎衛門の屋敷となっています。殖産興業やら文明開化で家門ごとに栄枯盛衰があったのかもしれません。
■宿場街東端の様子■
明治以降の街道と宿場街の大改造で、中山道の姿はすっかり変わってしまったようです。
現在は県道265号の北脇に「高札場跡」の立札が立っていますが、江戸時代に実際に高札場があったのは、県道脇の崖下だと見られます。というのは、旧中山道は、高札場跡よりも30メートル以上も西で少し北に逸れて段丘崖を降りて、現在の国道19号がある段丘に向けて進む経路になていたからです。
したがって、段丘崖下に下る小径の起点には石垣を施した桝形があって、崖下道を30メートルほど進んだところにも石垣を施した桝形が設けられていたと見られます。
現在の県道265号の須原駅にいたる道は、幅が狭い作場道――在地住民が田畑の農耕や山林作業に通う道――だったようで、裏道・脇道として利用されていたようです。
県道265号が通る段丘崖下の細道はこうなっている
荒廃し始めた古民家の前を往く旧中山道
高札場は、人さいには段蓋丘下のここにあったようだ
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