定勝寺の南東側の裏手の山腹高台に小さな神社の祠があります。 JR中央西線の線路の南脇の斜面の草地が、その神社の境内となっています。簡素な小さな社殿ですが、周囲の草は丁寧に刈り込まれ、長い間大切に保存されてきたようです。
  鳥居や社殿の周囲はおよそ300坪近い長方形の平坦地です。往古、ここには堂舎(伽藍か社殿)があったのではないでしょうか。


◆かつては定勝寺の寺領内の祠だったか◆



この高台は平坦になっていて、草地となっている。畑作地だったのか。ほかに祈りの場があったのか。



▲宿場南側の段丘上を通るJR線路の上の斜面にある平坦な境内
 山桜の大木が並んでいるので、春は花見の場所なのかもしれない。


▲簡素な祠だが、体節に保存されている


木製の鳥居の前から宿場街と木曾川の谷間を見おろす▲

  定勝寺境内の東脇を流れる矢洞沢に沿って急斜面の小径をのぼると、寺の裏手(南側)を回り込む林道とのT字路に行き当たります。そこは須原宿の街並みの背後に迫る山腹高台で、T字路の背後の段丘上(南側)をJRの鉄路が通っています。
  線路の背後(南側)の緩やかな斜面は開けた草地となっていて、山桜の巨樹並木の下に木製の鳥居が立ち、その奥に小さな社殿が置かれています。

  神社の名称(社号)はわかりません。社殿の脇の石塔はかなり劣化していて、刻んであるであろう文字は判読できません。
  とはいえ、草地は丁寧に整備され草も定期的に刈られているようです。近隣の人びとが大切に守ってきた祈りの場となっているようです。

  幕末までは、定勝寺の裏手の広大な山林は寺領でしたが、明治維新で政府によって没収され民間に払い下げられるか、国有林になるかしたのです。寺領の山林は鹿嶋社の本宮辺りまで続いていたと見られます。
  往時は神仏習合の格式のもとにあったので、定勝寺から鹿嶋社本宮までは仏堂や社殿・祠などがいくつも並んでいて、参道脇には石仏や石塔も立っていたでしょう。
  この小さな神社も、定勝寺の境内の一角で、そういう祈りの場のひとつだったのでしょう。
  ところが、明治以降に寺領が失われ、文明開化・殖産興業の波のなかで鉄道が建設され、昭和期に道路が建設され、そういう祈りの場の痕跡は消滅してしまったのではないでしょうか。ここは、往古の名残りをとどめる貴重な場です。

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