前回、私たちは妻籠の街を寺下と上町との境界にある桝形跡まで歩いて、街並みの中途に桝形があるという変則的な街の形の謎を探索してみました。今回は上町から中町を経て下町までを歩きます。 上町から下町までが、江戸最初期の中山道妻籠宿の街並みを形成していたところです。
  そういう歴史的な事情から、上町以北は各戸の間口が広く、本陣や脇本陣、問屋や富裕な商家など、堂々とした立派な構えの町家が多いところです。いわば宿場街の顔というか中心街という印象を受ける街区と言えます。


◆上町から下町までの街並み景観◆



上町から中町辺りまでの街並み風景。宿場街では通常、京都に近い側が上手、遠い方が下手とされていた。



桝形の北脇の家屋。ここから右(北)側が上町


▲観光案内所の前の街道


▲この辺りは上町の家並み。画面奥が中町方面。


▲中町は宿場街の行政の中心部。右手(街道東脇)が妻籠の本陣跡


▲右の町家 妻籠特有の町家の二階「袖壁」から発達した「うだつ」


▲脇本陣「奥谷」林家の遺構は歴史資料館になっている


▲脇本陣前から北がわの街並み。右手の町家の「うだつ」は明治以降のもの。


  中山道木曾路の妻籠や奈良井、馬籠は、明治以降も東京と京阪神を結ぶ交通の要衝でした。しかし、近代日本の工業化や貿易が進展すると、主要交通路は太平洋側に移っていき、とくに昭和30年代からの高度経済成長が始まると、木曾の旧宿場街は経済的繁栄から取り残されていきました。
  とはいえ、昭和前期までは、木曽路の旧宿場街は江戸時代に達成した商業集積を土台にして、商業物流の幹線として繁栄したのです。そういう時代に富を蓄えた有力な商家は店舗に「うだつ」を施したのです。「うだつを上げる」とは、商家が経営に成功して繁栄することを意味したのです。
  妻籠中町の商家町家の「うだつ」は、昭和前期までの木曾路が繁栄していた頃の痕跡だと言えます。
  江戸時代から木曾路の伝統的な建築様式、出梁造りの町家には、町家の二階の両端に「袖壁」がありました。袖壁は屋根庇の下に設置されるものです。「うだつ」は防火設備なので、その上部突端は屋根の上に抜け出ていて、それ自体の天辺が瓦葺きとなっています。

  「うだつ」や漆喰白壁には素材として大量の石灰岩(消石灰)が必要となりますが、各地での石灰岩鉱の発見と採掘は、江戸後期から始まり、とくに明治以降、昭和前期までブームとなりました。そういう事情が漆喰白壁や「うだつ」の普及の背景にあるのです。


▲中町と下町との境目辺りの街並み


▲駐車場が近い地も街には食事処が集まっている


▲標高は高くなっていくが、ここが下町


▲高札場跡と小さな水車小屋。この辺りが下町の北端


左の写真の町家の妻面(南側)

大正レトロ風な和風洋館は妻籠を愛する会事務所

  すでに見たように、上町が最初期の妻籠宿の最南端だったので、光徳寺下に桝形をつくりりました。左上の写真は、桝形跡と隣り合う上町南端の町家です。間口側が出梁(出桁)造りの木曾路に特有の古民家町家です。この町家と街道を挟んで向かい側の大正レトロな和風洋館が「妻籠を愛する会」事務所です。
  現在ここは変則的な四つ辻になっています。北からやって来る旧中山道が桝形跡で北寄りに迂回し、尾根を切り通してできた舗装新道が南に向かい、そこに妻籠小学校跡や光徳寺脇から下ってくる坂道が連絡しているのです。


街並みの屋根の低いシルエットが美しい


本陣問屋跡は整備され休憩所や展示場となっている

  桝形跡から下町の高札場跡までだいたい300メートルほどしかない、小さな街区です。そして、上町と中町、下町の境界はわかりません。それでも、古民家が軒を連ねる伝統的な街並み景観は、不思議なことに心の大きな癒しや安堵感につながります。
  私の勝手な推測では、街の統治業務を担う本陣辺りから「満壽屋」「ゑびや」辺りまでが中町を構成していたのではないかと見ています。ここいらが街の中心部だったということです。島崎家や林家など在郷武士家門を含む富裕な名望家が選ばれて本陣や脇本陣、問屋窓などを経営することになりましたがそれは、ときには宿場街の財政費用を自らまかなうことが必要だったからです。
  町役人たちは街の財政責任を担保しなければならなかったのです。そして毎年、福島の山村代官所をつうじて幕府道中奉行に宿駅経営について収支の会計報告の提出を義務づけられていたのです。厳格な会計記録をつくる識字算勘の能力、交渉能力が不可欠だったのです。自然災害で街に被害が出ると、被害額を見積もって代官所に財政支援や負担軽減を求めることもありました。
  隣の馬籠宿やこの妻籠宿でそういう役割を担っていた家門には、近代にあの文豪、島崎藤村を生み出すだけの財力と知的・文化的な素地が備わっていたのです。


「谷間の奥」を意味する妻籠の名にふさわしい街道風景

食事処が集まる下町地区の家並み

  妻籠宿は街の規模が小さかったので、本陣と脇本陣が街道の貨客の継ぎ立て(継ぎ送り)業務を担う問屋の仕事も担っていました。継立てとは、前の宿駅から運搬されてきた貨客を、馬方や歩行役を雇って次の宿駅まで送達する業務です。
  その業務処理をおこなう場所が人馬会所です。会所は、参覲旅の大名や公家、幕府の高官を宿泊させる建物(御殿)とは別棟になっていました。これらに加えて厩舎や土蔵群などが、本陣や脇本陣の屋敷地になかにひとまとまりになっていました。

  さて、中町地区には今、両袖に「うだつ」をもつ商家町家が残されています。これは、明治以降につくられたものです。江戸時代には「うだつ」はありませんでした。木曾路に特有の出梁造りの町家は、往時、2階の街道側の両端には「袖壁」と呼ばれる仕切りが施されていました。
  「うだつ」は江戸時代後期から昭和前期までの時代に、繁栄した商業街区の富裕な商家が隣家との境を画する設備で、仕切り壁に漆喰を施すことで防火(延焼防止)の役割を期待してつくられました。ということは、屋根はすべて瓦葺きになっていないと、無意味です。したがって、屋根瓦や漆喰壁が商家の建築様式として普及する時代になってからのものです。
  そういう建築様式は非常に費用がかかります。となると、宿場街や城下町、門前町の商業が飛躍的に成長して、商家に富が十分に蓄えられるようになった時代のものです。それが江戸時代の末期――木曾路では明治中期以降――から昭和前期にかけての時代です。

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