私たちは馬籠を出て馬籠峠の山道を歩き、大妻籠の集落を散策して、神明集落から大妻橋を渡って――蘭川あららぎがわを越えて――妻籠に入ってきました。発電所を過ぎると、妻籠宿の最南端の集落、尾又にいたります。この道が江戸時代の中山道の道筋です。妻籠宿は尾又地区から始まって、北に進むと寺下、上町、中町、下町となります。街並み景観を探索しながら、今回は尾又から寺下までを歩きます。
  一群の古民家(伝統的な建築物)が軒を連ねる景観、すなわち旧街道沿いの街並みは、なぜか心の大きな癒しになります。


◆尾又から寺下までの街並み景観◆



妻籠宿の寺下の街並み景観:北側から寺下の街並みを眺める。右手(街道西脇)のアオギリの古木がランドマーク。

  江戸時代最初期の宿場街は上町・中町・下町です。それが街道や街の成長とともに寺下、尾又へと南に拡大してきました。尾又や寺下は、本陣や脇本陣など宿場街の行財政機関が集まる上町以北と比べて、庶民の暮らしや小商いの場だったという印象が強い街区です。江戸時代の町家の佇まいが、昭和中期まで――経済成長の恩恵に浴することなく――そのまま残されてきたのです。





▲光徳寺の石段参道から妻籠寺下かいわいの家並みを見おろす


▲尾又の集落。家並みの右(西)側は蘭川で河岸に発電所がある


▲尾又のT字路を西に入ると尾又橋(蘭川)


▲尾又地区では中山道の南側には山が迫っている(北からの眺め)

  この先の山裾、オシャゴジ様祠の脇に大平街道への追分があった。山腹を東に登っていく大平街道は伊那方面へ通じる道で、そこで中山道から分岐したという。「尾又」とは、「宿場の街外れの街道分岐点」という意味だそうだ。


▲街道の両側に家並みがあるところから寺下地区になる


▲街道の両側に古民家が並ぶ寺下の街並み(南からの眺め)


▲晩秋の妻籠寺下地区。たくさんの観光客でにぎわう街道。


▲寺下地区の中ほどから北側の眺め


▲桝形跡の南側の低いところを通る街道脇の家並み(北からの眺め)


▲往時の景観を復元・再現した街並み


▲桝形跡から少し下っていく石畳の小径
 この部分の街道と街並みは低地にあったため、大雨が降ると、尾根の上か水がら流れ落ちてきて浸水したという。


▲上町と寺下の境界にある桝形跡。ここには尾根が張り出していた。

⇒上町と寺下との境界の桝形の復元図

  江戸初期の中山道が発足した当初は、宿場としての妻籠村の南端は上町でした。そのため、上町の南側は街外れで、ここに桝形が設けられていました。ところがその後、上町の南に新開地として寺下集落が宿場街に加わり、さらに尾又集落まで家並みが伸びました。
  ということで、妻籠の街歩きをするなら尾又から始めるべきだと思います。妻籠という街の姿、歴史と文化を探索するうえでは、それは大切なことです。


妻籠の街並みの西側を流れる蘭川


鉄骨をコンクリートで覆う古い造りの尾又橋

  尾又のT字路を西に折れて尾又橋を渡ってみてください。橋の下を蘭川の清冽な水が流れています。流れは強く、河床には丸みを帯びた大きな石が堆積しています。橋の少し上流には発電所があって、その放水路が見えます。
  尾又という地名は、街外れの追分、つまり街道の分岐点という意味です。江戸中期には、ここから南の尾根を越えて伊那に向かう伊那街道が分岐していたのです。その頃、妻籠の街は寺下まで拡大し、その街外れ(南端)で伊那街道と連絡していたのです。
  尾又のT字路辻の角地には、妻籠の名物ネズコ下駄の永楽屋がありました。残念ながら、店舗の経営者が高齢となったため、今は営業していません。


尾又のT字路辻角地にあったネズコ下駄の永楽屋
(店を営業していたありし日の姿)


尾又の追分跡近くにあるオジャゴジ(御社宮司)様

  中山道では、宿場の端(出入口)に社宮司という神社が祀られています。もともとは、諏訪地方の諏訪大神よりも古い神の神事をおこなうモリヤ神を祀っていた風習が信州を中心に各地に広まり、呼び名が転訛したものと見られています。
  もとは「社宮司シャグウジ」だったものが、敬語の「御」がついたうえに読み方が地方ごとに変化して「みしゃぐじ」「みさぐち」「みしゃごじ」「おしゃぐじ」などに方言化していったらしいのです。北信濃では「社軍司」と表記する場合もあります。

  さて、江戸初期の妻籠の宿場街は谷間の中心部につくられましたが、街並みが南に伸びるにしたがって狭まった谷間に家並みが形成されました。最南端の尾又では谷間がいよいよ狭まって、山腹尾根が東から街道まで迫っています。
  そのため、家並みは街道の西脇にしかつくることができなかったというわけです。今では尾又と寺下の境界はわかりませんが、今しがた述べたような事情から、街道の両側に家屋が並ぶようになったところから北側が寺下という街区になると見られます。


往時の中山道妻籠宿を彷彿とさせる風景


凸凹した石畳で歩きにくいが、これが中山道だ

  そうすると、では寺下地区の北端はどこまでなのかが疑問となります。寺下という地名は、東側から続く尾根高台に位置する光徳寺の下にある集落だということからつけられた地名でしょう。当初は寺の直下にある狭い街区だけだったのでしょううが、宿場街の成長とともに街並みは南に延びたのでしょう。
  最初期には妻籠宿は上町までだったので、その最南端に桝形を築きました。桝形とは、直角に2回(クランク状に)曲がらないと通り抜けられない経路をつくる構築物を意味します。ここでは、崖地形を利用しながら小さな石垣・石塁を施してあります。
  ところが、妻籠の宿場街が南に延びると、こんどは街並みの中ほど、上町と寺下との境界に桝形があるという変則的な町の形状になってしまったのです。
  ところで、江戸時代には光徳寺から続く尾根段丘が桝形の辺りまで伸びていて、その段丘崖が中山道の直進を阻む防壁となっていたと見られます。この尾根は明治以降になってから切り崩されて、道筋の屈曲がなくなり、現在の舗装車道が建設されたようです。それ以前のの中山道は、この段丘崖と石垣を西に避ける形で西に迂回し、1メートル以上も下ってふたたび上るという形になったのです。

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