光徳寺の背後の山腹高台に妻籠小学校跡があります。戦後の一時期には中学校も併設されていて、現在も旧中学校校舎が保存されているので、ここでは小中学校跡と呼ぶ五ことにします。今は妻籠街並み交流センターとなっています。 ◆想い出のなかの「丘の上の校舎」◆ |
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今も保存されている妻籠中学校の校舎 |
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妻籠小学校跡碑に刻まれた学校の沿革 今はなくなった旧妻籠小学校校舎(2012年撮影) ▲板張り壁が懐かしさを誘う教室棟(解体撤去された) ▲中庭跡から西方の山並みを望む。この景観も今はない。 ▲小中学校が共用した音楽室棟は残されている ▲旧妻籠中学校の校舎を南東側から眺める(現存) ▲西側からの中学校校舎眺め。 校舎の背後の高台――森のなか――に和知埜神社がある。 幕末までは須佐之男命(スサノオノミコト)を祀る牛頭天王社で、境内神域は神仏習合の伝統にしたがって光徳寺の寺域境内に含まれていました。 |
私は今、長野市の南端に暮らしています。かつて通った小学校は千曲川の畔にありましたが、今はなく、その跡地がJA(農協)の支所になっています。私にとって「想い出の校舎」は失われてしまいました。とはいえ、今でも小学校跡を訪れると、少年時代の経験が脳裏によみがえってきます。
妻籠小中学校は明治初期に光徳寺の境内に開設されました。観音堂を教室にしたそうです。校名の和智埜(和知野)とは、光徳寺がある山腹高台の地名だそうです。いまだ廃仏毀釈の気運が強く残っていたので、仏教施設としての観音堂は廃されてしまったのです。明治維新で寺院や神社が所有していた広大な山林や農耕地は政府によって没収され、国有地なったり民間に払い下げられたりしました。光徳寺が保有していた境内と背後に広がる山林原野を和智埜と呼んでいたようです。
旧相学校の校舎は、壁全面が板張りでした。この校舎は、明治16年(1883年)に光徳寺の境内よりも一段上の高台の敷地に移って建設されたものだったと見られます。中学校は戦争直後に新しい学制に沿って、旧小学校に併殺されたので、昭和22年(1947年)の建築です。 |
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