光徳寺の背後の山腹高台に妻籠小学校跡があります。戦後の一時期には中学校も併設されていて、現在も旧中学校校舎が保存されているので、ここでは小中学校跡と呼ぶ五ことにします。今は妻籠街並み交流センターとなっています。
  高石ともや&ナターシャセブンの『想い出の校舎』という曲のなかに「想い出を絵に描けば丘の上の校舎」という一節があります。地元の子どもたちがかつて学んだ小中学校の校舎は、古い街の歴史と文化を物語る文化財とも呼べる遺構です。


◆想い出のなかの「丘の上の校舎」◆



今も保存されている妻籠中学校の校舎

  妻籠小学校跡碑に刻まれた学校の沿革

明治6年(1873年) 光徳寺観音堂に和智埜学校設置
  8年 妻籠学校と改称
  16年 妻籠学校新校舎落成
  23年 吾妻尋常小学校と改称
  25年 妻籠尋常小学校と改称
  27年 妻籠尋常高等小学校と改称
昭和16年(1941年) 妻籠国民学校と改称
  22年 妻籠小学校と改称 吾妻中学校併設
  23年 妻籠小中学校と改称
  25年 妻籠中学校校舎落成
  31年 妻籠小学校校舎改築
  43年 妻籠中学校閉校 南木曽中学校に統合
平成9年 妻籠小学校閉校 読書中学校に統合

*光徳寺は明治政府によって、広大な山林領地を没収され、神仏分離や廃仏毀釈政策によって牛頭天王社(現和知埜神社)、豊川稲荷社、延命地蔵堂も切り離された。妻籠小学校は、かつては光徳寺の寺域だった高台に建設された。


今はなくなった旧妻籠小学校校舎(2012年撮影)


▲板張り壁が懐かしさを誘う教室棟(解体撤去された)


▲中庭跡から西方の山並みを望む。この景観も今はない。


▲小中学校が共用した音楽室棟は残されている


▲旧妻籠中学校の校舎を南東側から眺める(現存)


▲西側からの中学校校舎眺め。
  校舎の背後の高台――森のなか――に和知埜神社がある。
  幕末までは須佐之男命(スサノオノミコト)を祀る牛頭天王社で、境内神域は神仏習合の伝統にしたがって光徳寺の寺域境内に含まれていました。

  私は今、長野市の南端に暮らしています。かつて通った小学校は千曲川の畔にありましたが、今はなく、その跡地がJA(農協)の支所になっています。私にとって「想い出の校舎」は失われてしまいました。とはいえ、今でも小学校跡を訪れると、少年時代の経験が脳裏によみがえってきます。
  そんな私は、妻籠宿に来訪するたびに妻籠小中学校跡を訪ねます。蘭川に臨む高台にある古い校舎に寄り添いながら、妻籠の街と中山道を見おろしていると何とも心が安らぎます。
  しかし、老朽化して荒廃した校舎はしだいに危険になり、維持が困難になったため、2022年に一部を除いて取り壊され、妻籠街並み交流センターが建設されました。
  現在、保存されている旧小中学校の遺構は、旧校庭の北東端にある音楽室と南東端にある中学校校舎だけです。
  小学校は妻籠宿の街並みの東側の山腹高台に位置しているので、旧校庭の西端に立つと、街並みや光徳寺の境内堂宇を見おろすことができます。


旧校庭の端から眼下に見下ろす妻籠上町の街並み

旧校庭南端から光徳寺の境内を見おろす

  妻籠小中学校は明治初期に光徳寺の境内に開設されました。観音堂を教室にしたそうです。校名の和智埜(和知野)とは、光徳寺がある山腹高台の地名だそうです。いまだ廃仏毀釈の気運が強く残っていたので、仏教施設としての観音堂は廃されてしまったのです。明治維新で寺院や神社が所有していた広大な山林や農耕地は政府によって没収され、国有地なったり民間に払い下げられたりしました。光徳寺が保有していた境内と背後に広がる山林原野を和智埜と呼んでいたようです。


交流センターの真新しい建物

妻籠宿のイメージに合わせた造りの建物

  旧相学校の校舎は、壁全面が板張りでした。この校舎は、明治16年(1883年)に光徳寺の境内よりも一段上の高台の敷地に移って建設されたものだったと見られます。中学校は戦争直後に新しい学制に沿って、旧小学校に併殺されたので、昭和22年(1947年)の建築です。
  建築年代に60年以上の差があります。その分、旧小学校校舎の老朽化と荒廃が進んでいて、修復保存が難しかったということなのでしょう。

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