大塚古墳は広大な丘陵平原の真ん中にあって、北東方向に浅間山、南西方向に蓼科山を調合する場所にあります。古墳を築いた豪族は、雄大な風景に囲まれて永眠できることにどんな感懐を抱いたのでしょうか。
  ずいぶん前に石室が開講していたので埋葬物や副葬品は跡形もなく、埋葬された人物の家門や権力を推定する材料がありません。


◆雄大な風景のなかにたたずむ墳丘◆



小諸市南端の丘陵に広がる水田地帯。そこに大塚古墳がある。右側の背景は残雪の蓼科山。



▲古墳の北東方向には浅間山がそびえている


▲石室入り口の真横からの形状


▲南東側から石室を見上げる


▲北西側からの姿を眺める


▲東側から説明板と墳丘を見上げる

  この古墳は7世紀前半に築かれてから1400年近くの間、広大な平原のなかに屹立していたそうです。
  明治になるまでには石室は開講していて、埋葬物や副葬品は残されていなかったということです。したがって、どのような人物(豪族)がここに埋葬されていたのかは不明だということになります。
  一方、小諸市から佐久市におよぶ丘陵地帯には太古から人びとが集落を形成して定住してきたので、数は限られているものの、たしかにあちこちに古墳が残されています。


石室のなかを覗く

  墳丘の傍らに立つ説明板によると、1934年に八幡一郎氏により実測され、さらに1884年に筑波大学によって測量がおこなわれたそうです。
  その結果、次のようなことがわかりました。
・古墳は南にわずかに傾斜する緩斜面に築かれていて、径25メートル、高さ5.85メートル。
・石室は墳丘の中腹部に開口し、玄室の平面形は長方形で、両袖式と呼ばれる形状で、長さ4.3メートル、幅は2.38~2.98メートルと奥に行くにしたがって広くなる。
・奥壁は高さ2.35メートル、下端幅2.52メートル、上端幅2.52メートル。
・奥壁に使われる鏡石は表面の大きさが長さ2.98メートル、高さ1.8メートルの巨大なもの。
・右側壁の腰石は二石あり、その上に0.9×1.9メートル~0.6×0.9メートル程度の長方形の石材を二段に横積みしている。石材の大きさは不揃いで、石材間に40×50センチ程度の詰石をし、さらにその隙間に小礫を充填している。

  埋葬物や副葬品はないこれども、佐久地方では相当に権力や権威が大きな豪族によって築かれた古墳だということになるでしょう。

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