五領の大井氏館と城砦の跡を探る

  下の鳥観図と縄張図の出典は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第1巻(2012年刊)です。ただし、地形の高低差はやや誇張してあって、高低差はせいぜい3メートルほどです。

  塩名田神社から北におよそ200メートル離れた丘の樹林のなかに鎌倉時代に築かれた大井氏の城砦と領主館の跡があります。ここは下塚原の駒形坂から流れ下る小河川(濁川)が千曲川に合流する谷間を見おろす高台微高地です。鎌倉前期(1240年頃)、大井氏が耳取に進出してから最初に築いた領主館と砦ではないかと推定できます。
  この丘陵の南側、塩名田はその時代にはまだ低湿地(湿原)で、千曲川の氾濫による脅威が大きかったため、そして、粘土の粒子が微細すぎて降雨後にひどい泥濘になるため、開墾が難しく、農村開拓には着手できなかったものと考えられます。
  大井氏は五領の館と砦を南限として、標高が高い丘陵がある北に向けて開拓を領導していったようです。すなわち現在の弥美登里みみとり神社や玄江院辺りから北側です。そこには河岸段丘沿いの平坦地があって、田切地形の谷間で沢の上流部から灌漑用水を導きやすい地形でした。
  してみると五領の館と砦は、千曲川西岸の八幡望月方面や南の塩名田御馬寄ないし落合方面を監視し、小河川の渓谷以北を大井氏の所領であることを明示する境界とするためにつくられたのではないかと見られます。



  ところで宮坂氏は、城砦の北側の丘の麓を館跡と見ていますが、私の見方では、そこは家臣団の集落(初期の城下街)の一角で、背後の丘の上に領主館があったのではないでしょうか。領主館の周りの防御施設が南側の丘尾根上に延びて砦となったものと見ています。
  大井氏はやがて農村開拓が進むと、現在、耳取城跡とされている北方の河岸段丘・田切地形の高台に城砦と城下街を建設したようです。そうなると、五領の家臣・従者団が集住する城下街は早い時期に遺棄されたのではないでしょうか。