内町~津野村の街道と集落の鳥観図
■江戸時代の内町から津野までの街道と集落■ |
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上の絵図は、往古の長沼の風景のうち、内町の北端から津野村の南端まで区域を鳥観図で想像復元し2次元ディオラマとするための試作品です。 この米澤邸を中心とする長沼の鳥観図は、以下のことを仮定して描きました。 ・時代は19世紀半ば頃(幕末近く)とする ・長沼藩がなくなって廃城されてからも、長沼城の遺構としての外堀がまだ残存していたこと ・灌漑用水を架け橋(懸樋)によって外堀の内側に引いて、そこでも田畑の耕作を可能にしたこと ・津野村は寺町で、玅笑寺は有力な寺院だったことから、10~20の塔頭支院を擁する広大な境内寺領を保有していたであろうこと |
この点は、現在の津野公会堂が十王堂の跡地であるということなので、十王堂も含めて多数の塔頭支院があったものと推定しました。 明治維新の廃仏毀釈政策によって玅笑寺本体とその境内を除いた寺領は政府に没収され、民間に払い下げられたのではないかと見られます。 ・津野村はこれらの寺院と僧侶たちの需要に見合ったサーヴィス(食糧提供や労役など)を提供していたであろうこと この時代には、旧街道の鉤型(クランク状)の直角な曲がり角には桝形石垣が置かれていました。桝形石垣は、明治政府の新街道令にもとづいて撤去されました。 |