■栗田町は寺町だった■
江戸時代の長沼の姿を想像復元した2次元ディオラマを描くことに挑戦しました。今回は18世紀半ばの長沼宿(上町と栗田町)の様子を描いてみました。
北国街道松代道の宿駅、長沼宿は南端の上町(かんまち)と栗田町からなっていました。宿場街としての商業・輸送業の中心は上町で、栗田町はそれを支援する農村集落と寺町となっていたようです。
多くの場合、寺町になるのは古くからの歴史がある集落で、多数の僧侶が集住する宗教都市となるだけの格式を認められていたはずです。
栗田町には浄土真宗の西厳寺があって、おそらく10以上の塔頭支院群を擁していたと見られます。徳川幕府も相当に西厳寺には配慮をしていたようで、火災や災害後には手厚い支援をおこなって再建復興を進めました。
おそらく西厳寺は北信における浄土真宗の活動の拠点のひとつとなっていたようです。
この風景の奥には、浄土宗の善導寺があるのですが、善導という寺号を許されたのは、浄土宗で最高の格式を鎌倉幕府から認められてのことだと推察できます。
というのも、唐王朝末期の中国で禅師としては最高の地位を得た善導という高僧は、民衆救済を求めて阿弥陀信仰と経典を研鑽して、浄土教の土台をはじめて体系的に確立したそうです。
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そういう大僧正の名を冠する寺号を掲げることができたのは、それだけの地位と格式、威信を得炊いたからです。
長野善光寺は、時代によって50~70ほどもある、天台宗と浄土宗の支院(宿坊)群に支えられて運営されてきましたが、浄土宗の有能な僧たちを育成輩出したのは、長沼の善導寺の存在があったぁらだと推定できます。
善導寺もおそらく20くらいの塔頭支院を擁していて、浄土宗の北信における大拠点だったでしょう。
さて戦国時代、栗田氏はもともと長野村善光寺を保護していた栗田城領主だったのですが、味方していた武田家が滅びたために、武士から帰農して西島に姓を変えて郷士となり、長沼南部の農耕地開拓を指導しました。
開拓地は、栗田町は西島氏が先祖への敬意をこめて栗田町と名づけたそうです。やがて、北国街道(松代道)が建設されると、栗田町町の南部が――上町という呼び名となり――宿駅となります。西島氏は長沼宿の駅長(村長)・問屋となり、ほか数家の有力者とともに宿場街集落の建設を指導しました。
宿駅の発足当初、いまだ参覲交代の制度はなく、長沼は佐久間家を領主とする藩領であったこともあって、宿場の本陣は設けられず、千曲川の対岸の宿場、福島とともに物流の拠点の役割を担っていました。
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長沼宿(上町)と栗田町(寺町)が江戸時代にどのような風景だったのか、長沼の取材を始めてから3年間、私はこの疑問とそれへの答え(仮説・試論)を考え続けてきました。
信州の有力な諸藩は、幕府直轄の中山道はもとより、北国街道と宿駅などの建設にさいしては、品位と格式、旅人への配慮を相当に重んじていました。区間によっては景観づくりと、木陰づくりのために松並木がつくられました。
街道の中ほどには宿場用水が流れ、その畔には野草はもとより、ヤナギや松、ツツジなどが植栽されていたはずです。明治維新でこれらの仕組みは完全に壊されて、多くの宿場用水は「どぶ溝」のようになってしまいました。
往時の宿場用水のありようは、今でも遺構が残っている北国街道海野宿を観察すると実感をともなって想像できます。中山道の芦田宿西手前の笠取峠の松並木の遺構も、すばらしいもので、往時はどれくらい美しかったか、考えただけでため息が出ます。
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私たち日本人は明治以降に大工業化を達成し、便利で快適で豊かな経済生活を獲得しましたが、それと引き換えに失ってしまったものもあります。江戸時代には主要な街道の宿場街は街道両脇に植栽庭園が並んでいて、現代人が息をのむほどに美しい景観を保っていたものと見られます。
風景を再現する時代としては、林光院の横に東照寺があって、西厳寺という有力寺院に付属する塔頭支院群があった頃を想定しました。その頃、現在、林光院から国道18号の大町交差点に連絡する道はなく、あっても細い農道で、林光院の山門前には石垣の桝形があって、街道柄を往く旅人はそこで直角に南に曲がるしかなかったのです。
栗田町の西厳寺は、善導寺とともに、広大な寺領・境内を保有する有力寺院で、往時、塔頭支院は数多くあったと想定しています。
長沼というところは、それだけの有力な寺院が位置する特別の場所だったのです。それは、津野の玅笑寺についても当てはまります。
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