▲大きな蓋殿が勝手社の本殿を覆う。手前の赤い屋根は伊勢社。
▲社殿北脇に立つ大ケヤキ。連結していた片方の幹は倒れたという。
▲昭和期に修改築された拝殿。
▲拝殿の南側に伊勢社と天神社の鳥居が立つ
▲左から山神社、天神社、伊勢社の祠
▲境内南東側の様子: 土蔵、常夜灯、並木がある
▲境内北側は公民館となっていて、境内が削られたようだ
▲今の境内の北端を縁取るドウダンツツジと桜、ケヤキの列 |
◆山の神々にまつわる祭神たち◆
境内北東の参道と神社に導く石製の鳥居
勝手神社は信州ではごく珍しいもので、山岳、山間部では山神社として祀られている場合が多いようです。全国各地には勝手神社があまたあって、総本社は奈良吉野にあるということです。
その祭神は一般に、アメノホシホミミ、ククノチ、コノハナサクヤヒメ、コケムシ、オオヤマツミ、ハノヒメの6柱だと伝えられています。とはいえ、コケムシは謎が多く、オオヤマツミと同じものだと説明されることもあり、ハノヒメはまったく謎の神です。ともあれ、全員が山の守護神だとされているようです。
佐久平の真っただ中の千曲川の畔に山の神々を祀る神社が置かれているのは、少し奇妙です。が、周囲は山ばかりですから、御馬寄の農耕地と集落にやって来た人びとが山間部出身の集団だとすれば、いわば当然かもしれません。
蓼科山系の尾根を北に降りれば望月から浅科にかけての丘陵地帯にいたります。千曲川の増水氾濫の威力に恐れをなし丘陵にとどまっていた人びとは、丘陵への避難経路を確保しながらやがて戦国末期に御馬寄(千曲川河畔)に水田開拓を試みたのではないでしょうか。
拝殿の北西脇(裏手)のたつ大ケヤキ
◆合祀された山の神など◆
この神社にも、明治後期の祠堂合祀令や昭和期の耕地整理にさいして天神社や伊勢社など近隣の祠堂が合祀されたようで、なかでも特筆すべきは山の神(石祠)です。
佐久市教育委員会の調べによると、基部に刻まれた文字から、山の神祠は室町前期の永徳3年(1383年)の建立であるようです。本来の所在地は、ここから南西に800メートルほど離れた「山の神」という地籍で、そこから遷座されたようです。
そこは蓼科山系の尾根の最北端にほど近く、鎌倉時代に形成された村落群を小領主たちが統治し開拓を指導していたようです。
その地には往古(鎌倉時代から室町時代にかけて)、八幡社があって近在の武士たちが祭礼に参集して流鏑馬や武術試合などを催していたと伝えられています。そういう武士団の子孫は在地郷士となり村落の指導者となり、そのなかから、室町後期から戦国時代にかけて千曲川西岸の農村開拓を領導する人びとが現れたのかもしれません。
土地を相続できない次男三男からなる開拓民の集団は、故郷から帰依していた寺院た神社を――移設あるいは分寺や分社という形で――この地にもち来たらしたと考えられます。
今、境内の北側派には気宇民間が建てられ、神域はずい分手狭になっています。往古にはずっと広大な鎮守の杜があったものと推定されます。そのなかに連理の大ケヤキがあって、その片方の幹が今も元気に立っています。
こじんまりした境内の様子
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