地形と地理から望月城砦群の実相を探る その1
下の絵地図は、旧中山道望月宿を中心とする地理を示すもので、ここでは望月城砦群跡の配置を見るように描いてあります。ただし、虚空蔵城跡は布施川に隔てられた別の勢力圏に属すると見られます。
時期は黒町後期から戦国時代にかけてのものです。鎌倉時代から室町前期までは、望月氏は、ほぼ御牧原台地の高原上にある所領の集落と農耕地を統治していたものと見られ、水害の危険が大きい鹿曲川河畔では集落と農村の開拓を本格的には進めていなかったようです。
室町後期以降に、この地図にある位置に城砦群を築き、ことに城光院の現在地に領主居館を置いて鹿曲川河畔の河岸段丘に集落と農耕地を開いていったものと見られます。《山城―麓の居館+家臣団の集落・城下町―集落と水田》という武将領主の統治構造が見えてきます。
ところで、下の絵地図で「城砦を結ぶ稜線の小径」は戦国時代まであったと言われる尾根道ですが、山林資源を利用しなくなるのにともなって通る人がいなくなったうえに、浸食されたり自動車用道路の建設で開削されたりして、今ではほとんど消失しています。
下掲の城砦絵図と縄張り図の出典は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』(2012年刊)です。宮坂氏は、信州の山城の探索と研究において大きな業績を残しています。
望月城は、標高750〜840メートルにおよぶ高原台地をなしている御牧原の南西端の尾根丘陵に位置しています。この台地は、東から北側を千曲川、西側をその支流の鹿曲川、南側を同じく支流の布施川によって境界を画されています。地形については、下のグーグルマップを地形モードにして参照してください。
この高原台地では、古代から現代まで、水源を確保するために沢水を溜めて数多くの溜め池を構築してきたようですが、ことに近現代になってから溜め池が増加したものと見られます。しかし、時代を遡るほど、台地上に幾筋もの沢が流れ、低地では湿地帯を形成していたので、馬牧場の周辺域に多数の水田・畑作地帯を開いてきました。台地上の大半は、細かい粒子の粘土質または壌土室で、保水力が高く(水はけが悪い)肥沃な土壌で、水田開拓・稲作に適しています。
そこで、上記の河川群による水害を警戒して、室町中期までは、人びとはほぼ台地上に限定して集落と耕作地を開いてきたようです。そのころの領主居館の遺構は見つかっていないので、室町中期までの城郭や統治構造はまったく不明です。
ここで探索検討するのは、室町後期ないし戦国時代の望月城跡に関することがらです。その頃には低地の平坦地に開拓を広げていたのです。
【縄張り図】この図からは、本丸の南西側(崖側)に二ノ丸が回り込んでいることがわかる
本丸北側では急斜面を利用して4段の曲輪となっている。北東―東側では谷間の低湿地を利用した水堀(湿地堀)をつくっている。
山城としての望月城跡の西側は、鹿曲川河畔に降る崖をなしています。城からは西側に鹿曲川とのちに望月宿となる集落や農耕地を見おろすことができました。
城郭跡と御牧原の中央部とのあいだには、東西に何筋もの帯状の谷間と丘陵が横たわっています。城跡の北西側から右回りに南側にかけては、城跡の東側の大きな丘陵尾根とのあいだに低湿地が広がっています。現在は低地が水田で、高台が畑作地や草原荒蕪地になっています。してみると、かつてはこの低湿地の帯が城郭を防護する要害となっていたはずです。
したがって、城砦建設にさいしては、砦の北西側から南東側を掘り下げ、沼沢地から水を引いて湿地堀を形成したものと見られます。城は尾根高台上にあるので、湿地帯からの地下水脈を利用した井戸などで水源を確保し、降雨などによる余計な水は防衛設備を兼ねた溝や水路で低湿地の堀に落としたはずです。
鳥観図と縄張り図から判断すると、この城砦は、東〜南東方向からの敵軍攻撃を想定して構築されています。地形の構造からして、敵が打撃の中心として攻め寄せてくる方向は、東〜南東となるのです。その最も決定的な証拠は、土塁の構築状況です。