東堀正八幡群は柴宮とも呼ばれ、この地区の名前の起源となったそうです。 社殿群や祠、石塔などを取り巻く針葉樹(大半はサワラ)の林は、一辺が100~130メートルほどの五角形をなしています。ところが、神社の起源来歴については確たる史料がないようです。


◆起源や来歴は不明の神社◆



▲サワラの樹林のなかに・・・左が舞屋で、右が八幡群の社殿群。

▲幣拝殿の両側に左右片拝殿を配置した諏訪大社方式の造り。背後に本殿として
の八幡宮と諏訪大神、宗良親王がある。諏訪大社方式で本殿を拝する構造だ。



▲道路に面して石製の大鳥居、正八幡宮の門柱


▲天神社(右の祠)も隣の石祠群にも御柱が設けてある


▲左端の金刀比羅社から居並ぶ社殿、祠群、石柱すべてに御柱が設置


▲簡素な造りの舞屋。神楽殿とか舞殿とは呼ばないらしい


▲じつに端正な造りの片拝殿と幣拝殿


▲本殿は3つあって、最奥の主祭神は何かは不明


▲八幡神、諏訪大神、宗良親王を祀る本殿群


▲尼堂墓地の立派な高麗門。ここに寺院があった痕跡か。

  宗良親王をめぐる伝説で有名な神社だということですが、その縁起や来歴に関する史料はないようです。地元の歴史研究家から、明治時代にこの鎮守の樹林が明治政府によって没収され「官林」となってしまったものを、地元の住民たちが大きな犠牲を払って闘い、長い苦難の末に取り戻したという歴史があることを聞きました。
  実証に堪える史料はないのですが、語り伝えられている断片的な物語を私なりに繋ぎ合わせると、こうなるようです。
  正八幡宮と柴宮とはもともとは別の例歴をもつもので、誉田別尊を祀る八幡宮は鎌倉時代の中期(1250年代?)にはこの近辺にあったようです。
  そして、柴宮という名称の由来はというと・・・南北朝時代に南朝側の征夷大将軍または征東将軍となった宗良親王が、各地を転戦したさいに信濃に来て諏訪湖畔に兵站拠点を設けたのですが、それは森の柴を集めて築いた粗末な当座の御座所・陣屋だったのだとか。柴を集めてつくった親王=宮の御座所だということで、柴宮と呼ばれるようになり、人びとの尊崇・信仰の場となったようです。こうして、宗良親王を祀る神社として柴宮ができたようです。


法会の後の行堂の内陣須弥壇

養蚕社は少し離れたところに祀られている

拝殿側から舞屋の舞台を眺める

  ところが、戦国時代に武田信玄が諏訪一帯を征圧し統治するようになったとき、諏訪大神と八幡大神を祀る神社のほかは許されなくなったために、柴宮を八幡宮として祀るようになって破却を免れたそうです。柴宮に八幡大神(誉田別尊)を合祀したのか、別にあった八幡宮と合同したのか・・・。しかし、武田信玄は、新たな支配地の民衆を慰撫・包摂するために地場の寺社を崇敬して、寄進などをおこなうという統治スタイルだったとも伝えられています。そこで、神社の統合や郷合祀の物語は、「あとづけ」でつくられた物語かもしれません。
  戦国時代には戦火で多くの神社や寺院が失われたので、柴宮または八幡宮も同じような運命に見舞われて、合祀・統合という形で再建されたのではないでしょうか。
  ところで、東堀正八幡宮から南におよそ300メートルほどのところに尼堂あまんどうと呼ばれる不思議な墓地があります。墓地の入り口には重厚な高麗門の山門があって、かつては有力な寺院があった跡地のようです。宗良親王に仕えた尼僧院(尼堂)があったという伝説もあります。
  往時、政治や統治が神仏への深い帰依に導かれて営まれていたので、柴宮を護持する寺院や神社――神仏習合で一体化していた――がともなっていたはずです。尼堂・尼僧院があっても不思議はありません。柴宮以前からあった八幡宮が、守護神になったことも考えられます。また、現平福寺の所在地は、八幡群から見て鬼門方角にあるというのも因縁めいています。平福寺が古屋敷から現在地に移された背景には、柴宮の鎮護寺が荒廃したため、その再興が図られたという事情があったかもしれません。

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