国道20号を渡って柴宮の中山道を歩き始めて800メートルほどのところに真言宗の古い寺院、彌林山みりんざん平福寺があります。 近隣では日限ひぎり地蔵尊(おひぎりさま)の縁日で名高い古刹です。私が訪れた日はおりしも3月23日で、日限地蔵尊の縁日でした。駐車場を兼ねた境内の広場には地元の出店が海産物や山菜か加工食品や漬物を販売し、参拝者が買い物を楽しんでいました。


◆日限地蔵を祀る古い寺院◆



▲日限地蔵尊の縁日の出店には多くの人が集まっていたが、突然の雪と風で人波が散ってしまった。

▲山門は見た目がまだ新しい。近年、修築されたもよう



▲突然に雪が舞い始め、出店に並ぶ人の列が小さくなった


▲山門の正面からの姿。拭ってもすぐに雪でレンズが濡れて・・・


▲地蔵尊を祀るお堂。端正な造りだ。


▲信者が集まった行堂前から本堂を眺める


▲これまた端正な鐘楼。縁日に鐘を撞く信者もいる。


▲境内脇を農業用水路が流れ、細い路地が寺の裏を取り巻いている

  彌林山平福寺は、おそらく古代に真言密教修験の拠点として、横河川と砥川との間の尾根山中のどこかに創建されたのではないでしょうか。14世紀(南北朝期)に諏訪大社下社の別当寺、神宮寺の高僧(阿闍梨)、憲明によって古屋敷という地籍に中興再建されたようです。
  私の勝手な想像ですが、真言密教の寺院ということなので、諏訪大社下社の神宮寺の宗旨が真言宗だということから、巨大な寺院であった神宮寺の支院・支坊だったのかもしれません。諏訪大社上社本宮の神宮寺は天台だったと見られるので、神宮寺という寺の仕組みそれ自体が大きな謎です。いくつもの寺院の複合体だたのかもしれません。
  平福寺の山門前の説明板によると、中興後の隆盛時――おそらく室町時代――には下社春宮の別当寺をつとめ、七堂伽藍、十一坊を擁していたそうです。ところが戦国時代に戦乱と洪水などで荒廃し、その後、中山道脇の現在地に東堀郷とともに移設再興されたようです。「東堀郷とともに」ということは、寺の所領であった集落田畑もまた現在地に移転したということなのでしょうか。


法会の後の行堂の内陣須弥壇

扉の隙間から観音堂の内陣須弥壇をのぞく

  諏訪大社は巨大な神社だったので、中世までの別当寺の意味と役割は、江戸時代に徳川幕府が定めた宗教の管理装置としての別当寺とは異なるものだったかもしれません。神仏習合の思想のもとで複数の有力寺院僧侶たちが神官団とともに神社神域・寺域の統治運営に当たっていたことも考えられます――寺社は広大な荘園所領を保有していた統治システムでしたから。
  さて説明板にはさらに、江戸時代には柴宮正八幡群の別当寺として諏訪藩主の熱い帰依を受けた・・・明治の廃仏毀釈で諏訪大社の別当寺が廃されるさいに神宮寺、三精寺、観照寺の仏像などを引き継いだ、とも書かれています。
  説明板の文章は、諏訪大社の別当寺のあり方、あるいは神社と寺院の結びつきについてについて、神宮寺だけではなく複数の寺院が関与していという含意があるような感じです。
  明治維新による仏教文化の破壊と断絶によって文物史料の多くが失われ、残念ながら、私たちは幕末以前の仏教史や神社史の実相を知ることができなくなってしまったようです。

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