古い歴史を誇る今井には、長年にわたって人びとの信仰のよりどころとなってきた祈りの場があります。 とはいえその多くが、明治以降の時代の変遷のなかで、それ以前の歴史や伝統が断ち切られてしまっているようです。


◆今井の観音堂と石仏群◆



▲明治維新頃からの激変で今はこの観音堂だけが残されている。帰属していた寺院名もわからない。

▲イチョウの古木の脇に並ぶ石仏群。観音堂と同じ敷地の隅に安置されている。



▲明治期には学校の境内でもあった境内の西端に石仏群が並ぶ


▲観音堂の前に立つ枝垂れ桜と背後の今井区民センター


▲降雪後に陽光を浴びる観音堂。向拝は唐破風づくり。


▲自動遊具の奥に並ぶ石仏・石塔・僧侶墓碑群


▲多種多様な石仏・石塔がここに集められている

  諏訪盆地は、すさまじい変革と破壊としての明治維新の嵐が吹き荒れたところです。人びとの信仰が厚かった諏訪大社に対しても、明治政府の扇動によって、廃仏毀釈が民衆に強制され、神仏習合の伝統や仏教寺院に対する破壊が徹底されました。
  住民たちは寺院や仏像の破壊を躊躇し渋っていましたが、政府は総督を派遣して廃仏毀釈運動を無理強いしたのです。
  諏訪大社では別当寺としての神宮寺は五重塔も含めて堂塔伽藍がことごとく失われてしまいました。岡谷の今井集落でも廃仏毀釈の運動は展開され、寺院とその文物のほとんどは破却されてしまいました。


端正な入母屋造りの妻面側

お堂の内陣と須弥壇の様子

  神仏習合の伝統から切り離されて残された神社群も、それから数十年後に明治政府が発令した神社合祀令によって、各地区の有力な神社に強制的に統合され、本来の神域や境内は没収されて失われてしまいました。
  今井集落では、観音堂を保有管理していた寺院は消滅してしまいました。しかし、住民たちは知恵を働かせて、信仰篤かった観音堂だけは学校の校舎として利用し保存することができました。とはいえ、この観音堂が帰属していた寺院は跡形もなく消えてしまいました。
  こうして、日本のいたるところで歴史や来歴縁起が不明になったお堂や神社が残されることになりました。今井の観音堂も来歴を調べる端緒もないまま、現在の境内にポツンと孤高をかこちています。
  境内に残るブランコは、かつて校庭だった時代から現在まで、ここで子どもたちが遊ぶ姿があることを告げているような気がします。


◆天 神 社





▲草地の中ほどに立つ天神社の石塔。傍らにはムクノキ。


▲四隅に御柱が立ち、石の神を取り囲んでいる



石に篆刻された文字列

  観音堂の境内と道を挟んで南側にだいたい50平方メートルくらいの長方形の草地があります。その中ほどに天神様の石塔が立っています。周囲には4本の御柱、桜とムクノキが立っています。
  じつは、石に篆刻された文字列を私は判読できまませんでした。近くで雪かきをしていた男性に尋ねて天神社であることを知りました。
  近隣の住民は、天神社として尊崇し、6年おきに諏訪大社の遷座祭のたびにこの石神の周囲に御柱を4本立てているそうです。諏訪盆地では、あらゆる神様(伊勢社など大和王権系の神々も)が諏訪大神の威光によって照らされ序列化されていて、人びとは御柱を立てて信仰の証しとするようです。いつからの風習なのでしょうか。
  江戸時代には、この草地は観音堂が帰属していた寺院の境内で、神仏習合の信仰文化のなかで仏堂とともに天満宮の社殿があったのかもしれません。


◆神社跡(道祖神・蠱玉神社・天神社)





▲3基の石塔(天神社・蠱玉神社・道祖神)が草地の西端に並ぶ


▲背後からのの眺め


▲街道を挟んで向かいの東端に立つ双体道祖神と中山道標柱

  横河川を渡る直前の旧中山道の南脇に神社の境内があります。100平方メートルほどの台形の草地で、神社であることを示すのは3基並んでいる石塔です。草地の南端には「蠱玉神社」の標柱があるので、いまでは神社の跡(史跡)となっているようです。
  石神を護る庇のように2本のサワラ(ヒバか?)が傍らに立っています。少し離れて桜の樹もあって、夏には涼しい影をつくっていると見られます。近隣住民の祈りと憩いの場となっているようです。
  3基の石塔は道祖神、蠱玉神社、天神社です。昭和前期頃までは、ここにこれらの神社の社殿や祠があったのではないでしょうか。
  旧街道を挟んで反対側には双体道祖神と中山道標柱があります。双体道祖神は横河川の堤防道路脇なので、護岸工事にさいして、別のところからここに移設したのかもしれません。


道路の向かって左側の樹下に神社跡がある

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