大正から昭和前期の造りの古民家
岡谷は、私が予想していたよりもはるかに明治以降の都市化と近代化が進んだ街なのかもしれません。あるいは、昭和中期の高度経済成長によって集落群と街並みの変貌が大きかったのでしょうか。
しかし他方で、幕末から明治、大正を経て昭和前期までの古い造りの家屋もちらほら残っているので、幕末までの集落の遺構や面影がすっかり消えてしまったわけでもなさそうです。
そんな疑問を抱きながら、私は旧中山道に沿って今井集落を――番所跡から横河川まで――歩いてみました。
旧街道沿いの雪景色
漬物屋の店舗は街道側妻入の本棟造り古民家
現在にそういう街並みの歴史に関するイメイジを残しているのは、今井が「間の宿」だったことが理由かもしれません。間の宿というのは、旧街道制度において幕府が宿駅として指定した集落ではなく、宿場街と宿場街の間にある集落が貨客輸送や物流の中継拠点として自然成長的に発展成長して、ある程度の商業や人口の集積が進んだところです。
輸送料金を除けば幕府や各藩による規制や統制がないので、決まり事だらけで窮屈な正規の宿駅に比べると、経済的には比較的に自由に成長し、商業集積を達成できたのかもしれません。
そんなことを考えると、昭和中期まで残っていた街並み風景がどんなだったか見てみたいとい願望がつのります。
雪が積もるとこんなに景観が変わる
おそらく往時は商家の店舗を兼ねた主屋だったか
さて、私の街並み観察の印象を記すと、街道に面して妻面を向けている本棟造りの古民家は、江戸時代または明治前期から続く商家だったのではないかと見られます。旧街道沿いに1軒だけ今でも営業している漬物店(マルモ岡谷)は、本棟造りの店舗です。漬物屋という和風の伝統産業だから、現在でも命脈を保っているのでしょう。
昭和中期まで商家であったと見られる総二階造りの広壮な主屋は、もしかすると養蚕用の総二階造りから店舗建築へと発展したのかもしれません。養蚕のためには開口部を大きくして風通しを良くする必要がありますが、本棟造りはこれに向いていません。
旧中山道と交差する何本かの道路は昔の村道で、各交差点(四つ辻)は集落の中心部だったようです。四つ辻の周りには豪農または商家だったと見られる広壮な主屋や土蔵などの古民家が集まっています。
おそらく昭和後期まで、旧街道や主な道路の両側の家並みの背後には水田を中心とする農耕地が広がっていたのでしょう。そして、1970年代の終わり頃から、商工業が発達した岡谷市街中心部の職場に通勤する人びとの住宅地が田園地帯に取って代わってきたのでしょう。
街道から少し入った住宅地の近くには今でも耕作地が残っていて、また道筋も非常に不規則です。農道がそのまま住宅街の道路の置き換わったことがわかります。
大橋から横河川上流を眺める
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