茂田井の中山道沿いにある濁池にごりいけ

  茂田井の神明宮前から中山道の坂道を東に進むと、中山道の案内板を過ぎたところで県道148号と合流します。そこからは、北に向かって観音寺に向かう道も分岐しています。この道と県道に挟まれる窪地に溜め池があります。それが濁池にごりいけです。茂田井東部や観音寺地区の水田を潤す水利設備です。
  県道は濁池の南側の畔を往くのですが、道路と池の間の斜面には樹林があるため、路肩の下に池があることになかなか気がつきません。ここは、茂田井と望月とのあいだに横たわる丘陵の北麓谷間の窪地で、灌漑用水を得るために、谷間に堰堤を築いて沢水を蓄えた池です。池の周囲はおよそ300メートルほどです。
  佐久平から上田小県方面にかけての地方では、信州でも年間降水量が最も少ないところで、人びとは古代から溜め池をつくって農業用水を確保してきました。
  地形を観察して築堤し、小さな谷の沢を堰き止めて溜め池を建設する技術は、9世紀頃に真言や天台の密教修行僧が伝えたようです。平安時代の9世紀はじめ、最澄や空海は学僧として遣唐使に随行して中国に留学し、仏教思想はもとより、溜め池を構築する農業土木や建築、医学薬学などの知識や書物を学び持ち帰りました。その後も、遣唐使の一因となった学僧たちは、中国から当時の最先端の学問や科学技術を持ち帰りました。
  中国に留学した僧たちが持ち帰った万感の書物は、天台や真言の寺院を拠点として各地から集まった学僧たちによって研究され、大和王権の統治のため、あるいは各地での農村建設のために用いられました。降水量が少ない地方で農業灌漑用水として溜め池を築く技法も、修行僧たちによって民衆に伝達されました。


県道148号から樹林越しに北脇にある濁池を眺める


▲濁池の南畔の丘を横切る県道148号:左手に溜め池がある

▲溜め池を支える堰堤は、谷間に北西=南東方向に築かれている

▲池畔の樹林が水面に影を落とす

▲対岸の樹林の背後に県道148号が通っている

  北佐久地方から筑摩、小県地方にかけては、平安時代に多数の天台宗や真言宗の寺院が建立され、仏教思想や学術研究、密教修験の拠点のひとつとなりました。平安時代から鎌倉時代にかけて、塩田盆地を中心として、現在の上田市丸子、立科町山部は「信濃の学海」と呼ばれ、各地から多数の学僧たちが集まり仏教思想や多様な学問技芸を研究研鑽するとともに、農民民衆に農業の栽培技術や養蚕・生糸紡錘や機織などの技術を伝え、また薬草・生薬あるいは温泉を利用した医療を施しました。
  ことに真言の修行僧たちは「現生利益」をスローガンにして、仏教のありがたみを知らせるために、溜め池の建造・改修などを精力的におこないました。四国香川の満濃池を弘法大師が改修した事績は有名です。

  茂田井の隣の望月は、古代から御牧原能源台地に大和王権直轄の馬牧場(御牧/勅旨牧/官牧)があって、この地の豪族、滋野氏の一族が牧監として官牧とその周囲の集落群を統治しました。古代、旧暦葉月半ばに、各地の御牧(官牧)から献納された名馬を王権の役人都の入り口の逢坂の関まで出迎え、なかでも満月の日、優駿を宮中で披露する催しがありました。「駒迎え」「駒牽き」と呼ばれていた催しです。とくに宮中での駒の披露は「望月の駒牽き」と呼ばれました。
  官牧で育成したのは大陸系の馬種で、武装した武人を乗せる大きくて頑強な馬で、王権の騎馬団を編成するために不可欠でした。冷涼な信州の高原牧場では、ことのほか優良な馬が育成され、税として都に貢納されました。そこで、北佐久の牧場には「望月の御牧」という尊称が与えられたそうです。そして、牧監の一族は望月姓を与えられたそうです。
  そういう場所ですから、王権の役人の宿舎や官衙もあって、当時、大和王権の権威を支える宗教思想だった仏教を担う天台や真言の有力寺院も望月近隣一帯には数多く創建されました。そのような寺院が、仏教や学術の研究・普及の拠点となったのは当然です。
  とはいえ、古代の密教寺院が大和王権の権威と結びついたという側面だけで、寺院や僧たちの威信や信頼が高まったわけではありません。彼らは、寺院を拠点としながら、民衆に農耕地の開拓や用水路・溜め池の建造を指導し、養蚕・製糸・織布の技術を教え普及させ、農村集落建設を支援したがゆえに、民衆から尊敬を集めたのです。
  佐久から筑摩、小県にいたる地方には多数の溜め池があります。これらは、そういう古代からの歴史を受け継ぐ遺産なのです。

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