平塚の集落は不思議なところです。地区のいたるところに石仏や石塔が集まっている祈りの場があるのです。
  太古に泥流がつくった多くの小丘の上には神社や墓地がつくられていて、さらに家並みの近くに石仏・石塔が集められている祈りの場があちらこちらにあります。集落全体が大きな寺院・神社の境内のなかにあるような奇妙な印象を受けます。


◆散在する石仏群に取り巻かれた不思議な村落◆



集落の西端の小丘(高台)の上に並ぶ石仏群。墓地と一体化して、あたかも寺の跡地のように見える。



▲周囲よりも2メートルくらい高い丘の上に石塔、石祠がある


▲ここに小さな寺院の堂庵があったのかもしれない


▲振り返ると、昭和初初期に建てられた土蔵が豊かな村を印象づける


▲古い火んの見櫓塔は集落の中心部に立つ


▲総二階の広壮な家屋は養蚕のために昭和前期に建てられたか


▲街道沿いに並ぶ昭和初期建築と見られる土蔵


▲街道沿いの家並みの背後(北側)の田園地帯に並ぶ石仏群


▲背後の広場の端に並ぶ石仏群


▲武士の墓標の前に並ぶ如来や菩薩の半跏思惟像


▲かなり手がかかり技能が高い造りの立像が並ぶ


▲ヒノキの周りはは斎の場だったか。石塔と石仏が並ぶ。

  信州では農民や商人たちが家ごとに墓石や墓標を絶てて死者や祖霊を祀るようになったのは、大正後期から昭和前期にかけての時代です。つまり、この地に多数見られる墓標や石仏は純然たる農民たちのものではないのです。
  この集落では、大正以降昭和期につくられ始めた墓地は、だいたい塚と呼ばれる小丘の上にありました。今回探索した石仏群は、集落西端の街道脇にある小丘を除くと、すべて平坦地にあるものです。

  この集落の石仏や墓標はおよそ200年から400年くらい以前の古いもので、武士やその末裔の郷士――彼らは算勘と識字能力によって宿場街の本陣や問屋、あるいは農村の庄屋を勤めた――とかだけが、相当の費用をかけて高い技能を持つ石工に彫らせたひときわ格式の高い石仏と見られます。
  石仏は浮き彫りではなく、立像や座像の全体を彫り出してつくった精巧な仏像で、普通の野原にあるはずがないもので、あるとすれば格式の高い有力な寺院の跡だけだといえます。それが謎をいっそう深めるのです。


昭和期の道路整備のさいに石垣が施されたか
中山道と集落を見おろすように並ぶ石仏の列

  私としては、いまだ平塚地区について書かれた史資料を入手できていませんので、知見がない状態でこの地区を中山道沿いの集落として描くことになります。
  ここは浅間連峰の麓に広がる複合扇状地の扇端近く、濁川の下流域にあって、往古、浅間山麓を襲った泥流がつくった丘陵の東の端にちかいところに位置しています。泥流はいたるところに塚と呼ばれる小さな石と泥の山を形成したので、地名に「塚」という文字が入っています。
  そして、中世をつうじて岩村田を領した大井氏の勢力圏に帰属または近接していたので、大井一族またはその直属家臣によって村落の開拓・建設が指導されたのではないでしょうか。
  集落の中央部には、土塀で囲まれ敷地が広く、奥まったところに門が甘えられた屋敷があります。この家並みのなかに、戦国末期に帰農して郷士となった元武士家門の屋敷があったのではないでしょうか。そのことは、屋敷の背後の水田地帯に広大な墓苑と一体化した石仏群が広がっているからです。


昭和期に整備された用水堰が家並みを縦断する

  1980年代から旧中山道沿いの家並みの姿は大きく変わり、昭和中期まであった旧街道の面影は失われてしまいました。それでも、往古を偲ぶ史跡として集落のいたるところに分散するように石仏・石塔群が残されています。
  もしかすると、有力な寺院の末寺として小さな堂宇が集落のあちこちにあったのかもしれません。なにしろ、平塚村の歴史や文化に関する史資料が見つからないので、なぜ、どのような経緯でこの村のいたるところに石仏群があるのかはまったくわかりません。
  平塚集落の探索のために歩き回って取材したさいの印象にしたがって、ひとまとまりの石仏群がいたるところに分散している理由や経緯を想像してみるほかありません。とにかくまず石仏群のある場所を数え上げてみましょう。


武家屋敷のような趣の屋敷

  まず集落西端の入り口の街道南脇の小丘の上に、あたかも街道と集落を見守るように多数の石仏や石塔が並ぶ列があります。
  次に集落の中央部、旧街道沿い北側の家並みの背後の田畑との境界に風致公園のような公民館との広場があります、そのの端とその前の空き地に2郡の石仏が並んでいます。
  注目すべきは、それぞれの石仏が相当に技巧が高度で手がかけられた彫像石仏であろいうことです。街道脇に立つ馬頭観音などの野仏とは格式が断然違っています。このような石仏は普通、有力な寺院の境内のなかに安置されているはずです。
  そこから北西方向におよそ120メートル離れた水田地帯のなかにも武士風の墓標群と隣り合うように精巧な石仏群が並んでいます。如来や菩薩の半跏思惟像あるいは漢音菩薩や地蔵菩薩の立像がひとまとまりになっているのです。
  300坪くらいの草地のなかなので、古い寺院の跡といってもいいくらいです。


円筒形の踏破層の墓標なので、ここに堂庵があったか

  まず集落西端の入り口の街道南脇の小丘の上に、あたかも街道と集落を見守るように多数の石仏や石塔が並ぶ列があります。
  さらにそこから南東に100メートルほど離れた場所に、ヒノキ2本が並ぶ、これまた地井さん仏堂の跡地のような広場があって、そこに石塔と石仏、常夜灯がひとまとまりになっています。
  注目すべきは、それぞれの石仏が相当に技巧が高度で手がかけられた彫像石仏であろいうことです。街道脇に立つ馬頭観音などの野仏とは格式が断然違っています。このような石仏は普通、有力な寺院の境内のなかに安置されているはずです。
  梅の古木が隣に照っていて、ここに小さな地蔵堂か観音堂があったような印象ですが、上記の石仏群とあまりに近接しています。むしろ、往古に大きな寺院があって、その広い境内の一角に小堂があった跡地と見るべきかもしれません。

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