平塚の北東の端にある小丘の上に荘山稲荷神社が祀られています。戦国時代末から江戸時代はじめにかけてこの村が開拓されたときに創建された、もっと規模の大きな神社があったのではないかと見られますが、今は何の痕跡もありません。とはいえ、見かけとは違って格式が高い神社かもしれません


◆村創建にまつわる神社なのか◆



太古に泥流がつくった小丘上を境内としている荘山稲荷社。左側に迫る土手は中部横断道路の擁壁。



▲旧中山道から入る参道入り口に立つ鳥居


▲小丘上にところ狭しと生い立つ樹木群が社叢


▲小丘の縁を補強するコンクリート製の石垣


▲赤く塗られた拝殿。奥に本殿蓋殿がある


▲狭い境内にところ狭しと建てられた常夜灯や合祀された摂社群


▲肺炎の背後側から小丘上の本殿を眺める

  信州の古くからの村落には、神社についてほぼ共通する慣習則があります。通例として、水田開拓と集落の創建時に用水路整備などにおける村人の結束を促していた神社がありました。村落で中心となる神社は、境内神域はそれなりの規模があって、外観上の格式を備えていました。
  ところが、平塚の荘山稲荷神社は、太古、泥流がつくった直径20メートルくらいの小丘を境内とする規模が小さな神社で、外観上は村社の見栄えとして何やら物足りません。
  境内の脇を中部横断自動車道が通っているので、その建設用地確保で稲荷社の境内が縮減されたのでしょうか。
  江戸時代まで神社や寺院が領地として保有していた田畑のほとんどは、明治維新後、新政府に没収されてしまいました。一方で、天皇制と結びついた国家神道イデオロギーを浸透させるために、明治時代には明治政府の統制を受けて、補助金や助成金の対象として郷社とか村社の指定を受けたりしています。
  しかし、日清戦争と日露戦争後、膨大な戦費を浪費した明治政府は深刻な財政危機に陥り、地方の町村に多数あった規模の小さな社や祠を主要な神社に合祀統合するように強制し、もとの神社地境内を没収し、民間に売却して財政資金を得ようとしました。それが祠堂合祀令です。
  そういう経緯があって、神社の境内神域は小さくなる傾向でした。

  ところで、平塚の東に中山道の宿場として岩村田があって、街の東方の郊外、湯川河畔には鼻顔稲荷社があります。室町末から戦国時代にかけての時期に京都の伏見稲荷を勧請して創建した、信濃の国では随一の有力な稲荷社です。
  平塚一帯の水田開拓や農村建設が本格的に始まったと見られる時期ですから、この地の荘山稲荷社がその直系の神社であれば、その頃にはもっとずっと大がかりな神社として創建されたはずです。稲荷信仰で精神的に連帯した人びと――おそらく有力領主、大井氏の家臣に率いられた人びと――が岩村田から平塚に開拓修飾したときに建立された神社があったでしょう。
  すでに見たように、平塚には格式の高い石仏がきわめて多数残されています。それは、相当に格式の高さを誇る家門が、自分たちの存在感を示すために造り奉納した石仏で、普通は、有力な寺院などにあるはずの上等な石仏群です。それに見合った神社があったはずです。
  もしそれが稲荷社だとすると、何らかの経緯・事情があって、現存の稲荷社が小さな小丘上の境内に収まってしまったということなのでしょうか。
  そういう来歴を物語る史料があれば、ぜひ目にしたいものです。

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