和田城跡と居館跡を探索する その1

  和田郷と和田城の歴史を考えるためには、ひとまず和田郷の地理的環境を理解しなければなりません。和田郷の背後にある和田峠は、美ケ原高原と霧ケ峰高原とを結ぶ尾根陸橋(橋頭保)をなしています。
  古代に大和王権の権力や権威を伝え、東国を支配するための経路だった東山道は、木曽谷や伊那谷を経て諏訪や松本から佐久・小県方面に抜けるためには、美ケ原や霧ケ峰などからなる険阻な高原山岳を越えていくしかありませんでした。なかでも、高原の谷間と尾根を往く経路が和田峠でした。古代はもとより、さらに古い時代、縄文人たちが黒曜石を北越や奥羽に運ぶための道も、和田峠を越えていったという痕跡が残されています。
  そして、後の江戸時代初期に中山道として整備されることになる、和田川・依田川沿いの谷間を往く道筋だけが峠越えの道ではありませんでした。古くは、美ケ原から東に向かって野々入川または追川の渓谷を下って依田窪に経路もあったようです。その道は、和田郷の北側で余里峠を越えて武石郷とも連絡していたと見られています。こうして、和田郷は交通の要衝となっていました。
  飛鳥時代から平安時代にかけて、これらの道は、北信濃高井郡や望月の馬牧場を経営する渡来系の人びとが毎年、大和王権に馬を献納するためにたどった経路ともなっていました。和田郷を創始開拓した郷士「和田六騎」のうちの秦氏――のちに真田家から俸禄を与えられたときに「羽田」姓に変えた――は、600年間も自前の神社と寺を保有するほどに名望と権威を得てきた渡来人の家系です。和田郷の秦氏はじつに奇特な家門です。その意味では、和田郷には古くから大陸の高度な文化が根づいていたものと推測できます。
  上ノ山は、追川と野々入川という2つの川の南側を遮る急峻な崖の列をなしている長い稜線の先端に位置しています。野々入側からは登攀するのが相当に困難な崖をなす尾根筋ですが、美ケ原・和田峠から稜線伝いに上ノ山への道を確保すれば、尾根の南側の和田川・依田川の渓谷ならびに北側の野々入川・追川の渓谷を往く人びとの動きを監視することができたはずです。



▲和田宿の西から北に尾根を延ばす上ノ山(古峰山とも城山とも呼ばれる)

▲和田城の鳥観図 出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』4(2012年)

  鎌倉時代には、各地方の荘園を軍事的に防衛し治安を担っていた武士団を率いる領主が、開拓が本格化し始めた山間の郷村を支配統治し、所領として農村開拓を指導するようになりました。山岳の合い間の河川流域に集落や農耕地の開拓が本格的に進められるようになったのは、室町時代だと見られます。開拓は土着化した小豪族・郷士たち――和田六騎と呼ばれる家門――が指導したようです。
  この動きは室町後期から戦国時代に一段と顕著に展開されました。そんな動きが相当程度進んだ頃合い、戦国時代には佐久の有力領主、大井氏が望月から芦田、依田窪、武石などに勢力を広げ、農村開拓を指導してきた在地の郷士を支配下におさめることになったようです。
  和田郷の在地の開拓指導者としての和田六騎(上野家、上原家、遠藤家、長井家、羽田家、境沢家)は、このような領主、大井一族によって包摂され、所領統治の担い手となっていきました。在地郷士層としては戦国の世で郷村を軍事的に防衛するために、大井氏を盟主=領主として支えることになりました。
  この時代に上ノ山の尾根に城砦群が築かれ、尾根裾には根小屋(山麓城館)として領主居館が造営されたようです。これが尾根上の和田城砦群で、現在、信定寺がある辺りに領主居館と家臣団の集落(城下町)があったと見られています。


▲上ノ山の縦断面図と和田城の縄張り図 出典:宮坂、同上 (ただし編集加工して見やすくしてあります)


    以上のように、和田城と尾根裾の居館ならびに城下町の形成史をごくおおまかにたどったものの、戦国時代の山城が、なぜ、いかにして、このように両側が急峻な崖斜面をなす尾根筋に城砦群を構築したのかについては、大きな謎です。
  この時代の戦乱があまりに熾烈で、武士団と農民たちが、戦火を避けるためにこれほど峻険な山岳に逃げて立て籠らなければならなかったということでしょうか。しかし、信州の山城のうち、和田城や小布施の雁田城はあまりに険しい尾根に築城してあって、住民とともに立て籠もることができないほどに険阻です。立て籠もっても、日々の生活のための移動さえままならない地形なのです。したがって、反撃・反攻にも役立たなかったでしょう。してみると、このような地形にある山城は、戦争や軍事的防衛のための装置ではなく、統治のための儀式に用いた象徴的な場にすぎなかったのではないか、というのが私の見方です。
  このような峻険な稜線上の山城に城主と住民が立て籠もったという具体的な記録は見つかっていません。住民=農民としても、日々の農作業があるので、立て籠りには参加しなかったはずです。



和田城縄張り全図 出典:同上

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